首里城が燃えていた

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大事なシンボル「首里城」

家についてようやく涙が出てきた。少しずつ気持ちが落ち着いてきたので、過去を振り返ってみる。

初めて首里城を訪れた(記憶にある)のは中学2年生の頃だった。当時コンパクトカメラを持っていて、たまに家の近くの花や街並みを撮り歩いた。そのことを知った美術の先生が「首里城フォトコンテスト」を紹介してくれ、応募締め切りのギリギリに友達と撮影に行った。撮った中から5点くらいを応募したが、その中の1点が国王賞に選ばれた。初めて自分の写真が評価され大喜びした。写真の歓びに目覚めた朝日少年は、高校入学のお祝い金とお年玉を合わせて一眼レフカメラを購入、現在にまでいたる。

静岡の大学生時代、地元を離れて生活するうちに沖縄への愛が強くなった。大学にはいろんな地域から学生が集まっており、それぞれの故郷について話すことがたびたびある。沖縄は良いイメージで語られる一方、沖縄の抱える問題に対して心ない言葉が投げかけられることも少なくなかった。そういった言葉で傷つき落ち込んだ時には、ウチナー(沖縄)を愛する気持ち、歴史や文化への誇りが自分を励ましてくれた。その大事なシンボルが「首里城」だったのだ。

 失って初めて存在の大きさに気がつくことがよくある。しかし気がつくことができれば、そこからまた進み始めることができる。沖縄戦で県民の多くの命とともに失われた首里城も1992年に復元され、世界中から多くの人たちに親しまれてきた。戦後復興の象徴的存在でもある首里城が一瞬にして失われたことは、言い表すことのできない苦しい気持ちである。


 けれども、首里城は琉球王国時代、何度も焼失したがその度に再建されてきた。ウチナーンチュが自分たちの歴史・文化やアイデンティティーを大事にし、沖縄に思いを寄せるあらゆる人たちが力を合わせれば、きっとまた蘇らせられると信じている。

ウチナーよ!チバリヨー!!

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