「普天間返還合意」とは、結局何だったのか①

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有事法制の「隠れ蓑」

 

もう一方のガイドライン関連法は、第一次北朝鮮核危機(199394)に端を発する。この危機に際して、クリントン米政権は武力行使も選択肢として検討したが、実際に有事となった場合、一般の港湾の使用許可など、日本の全面的な協力は不可欠であった。日米首脳会談で強く要請された細川護煕首相は帰国後に検討を指示したが、当時の法体系でできることは、ほぼ皆無であった。

その後も、北朝鮮危機の再燃を懸念する米政府は、日本に対して有事の際の対米協力を可能にするガイドライン(「日米防衛協力のための指針」)関連法の整備を強く求めていたが、国内では有事法制だとして巻き込まれるリスクを懸念する声が根強く、社民党も難色を示していた。

普天間返還合意が発表された後、橋本は周囲に「順番を間違えるな」と厳命した。すなわち、普天間返還の具体化を先に進めることによって連立与党や国内世論の空気を和らげ、その後にガイドライン関連法の整備を進めるという「順番」である(結局、ガイドライン関連法は小渕恵三政権の下、自民、自由、公明の賛成で成立する)。

普天間返還という「サプライズ」によって代理署名拒否をめぐる大田の気勢を削いで沖縄の空気を劇的に転換させ、米軍基地の不法占拠化という事態を回避する。また、それをガイドライン関連法の整備を進めるための、一種の隠れ蓑として用いることもできる。

このような種々のメリットがあればこそ、橋本は具体的な形の定まらない代替施設という難題に目をつぶって、サプライズによる返還合意という賭けに出たのであろう。【②に続く】

 

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