「沖縄に要らないものは本土にも要らない」論を問う

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3.軍事的理由ではなく政治的な理由

 

しかし、政府は閣議決定のみで同じ沖縄の辺野古にたらい回しを決定した。なぜだろうか。

それは、中谷元防衛大臣が、沖縄の米軍基地は「分散しようと思えば九州でも分散できる、理解してくれる自治体があれば移転できるが、米軍反対とかいうところが多くてできない」、 森本敏元防衛大臣も、「西日本のどこかであれば海兵隊は機能するが政治的に許容できるところが沖縄しかない」と述べたこと、梶山元官房長官の書簡に「シュワブ沖以外に候補地を求めることは必ず本土の反対勢力が組織的に住民運動を起こす事が予想される」と書かれていたこと。つまり、いざ「本土」に移設しようとすると反対の「民意」が強いので、「軍事的・地政学的」な理由ではなく「政治的」に難しい、ということで、本土の「民意」と沖縄の「民意」を不合理に区分し、本土の「民意」は尊重し、沖縄の「民意」は無視し、沖縄に普天間基地の代替施設と称して同じ沖縄の辺野古の基地建設を強行しているのだ。

小泉純一郎元首相は2005年11月の全国知事会での当時の稲嶺惠一沖縄県知事の発言を受けて、「沖縄の負担を軽減するのはみんな賛成だが、どこに持っていくかとなると、みんな反対する。賛成なんて誰もいない。平和と安全の恩恵と、それに見合う負担をどこが負うかだ」と述べている。

これらは、ジョセフ・ナイ元国防次官補が「沖縄基地は中国に距離が近すぎるため、対中国では地理的優位性はなく、むしろ脆弱だ。沖縄の人々の支持が得られないなら、米政府は辺野古移設を再検討すべきだ」と述べたこと、モンデール元駐日大使が「我々は沖縄と言っていない。日本政府が別の場所に配置すると決めれば、私たちの政府はそれを受け入れるだろう」と述べたこと、ウィリアム・ペリー米国防長官が「移設先を決めるのは日本政府。我々の視点から言えば、日本のどこであっても良かった。日本側は沖縄県外の移設にとても消極的だった。これは政治的経済的な問題であり、主に日本人や、日本政府にとっての問題です」と述べたことなどの記録が裏付けている。

安倍首相は、2018年2月2日の衆院予算委員会で「日米間の調整が難航したり、移設先となる本土の理解が得られないなど、さまざまな事情で目に見える成果が出なかったのが事実だ」と述べた。現職首相も国会答弁で普天間基地の県内移設の理由が、「本土の理解が得られない」ことだと自ら認めているのだ。

4.沖縄以外の全国の自治体を等しく候補地とする意味

 

小金井市議会で共産党会派は当初、翻意の理由として「沖縄以外の日本全国を等しく候補地とする」ことが「県外移設前提」で、党の方針に反するという理由を述べていた。しかし「新しい提案」は、「その際、米軍基地が必要か否か、普天間基地の代替施設が日本国内に必要か否か当事者意識を持った国民的議論を行うこと」を求めている。当事者意識を持った国民的議論により、普天間基地の「県内移設以外」のあらゆる結論を出すことが可能というものであり、「県外移設前提」ではない。

県外移設を求める立場から、沖縄側から特定の候補地を出すべきだという意見もある。特定の候補地を挙げれば、沖縄の基地集中と同様、その候補地となった地域に住む人たち以外は当事者意識を持ちえず、他人事としてしか捉えない傾向にあるのだから、まずは、等しく候補地とすることこそが必要ではないか。

「本土」のある場所を、「普天間基地の代替施設として移設が可能な地域は沖縄以外にもたくさんある」という意味で示すのであれば有効だが、鳩山政権時代の徳之島や橋下大阪府知事時代の八尾空港、おおさか維新の会が提案した鹿児島県の馬毛島は、報道されたとたん、地元の反対運動やこれを否定する理由が出されて結局は頓挫した。

これらが「本土の理解が得られないから」という政府の理由を補強する結果を招き、2016年9月16日福岡高裁那覇支部判決が挙げる「代替施設の建設地としては辺野古沿岸域がいまや現実的な実現可能性のある唯一の選択肢である」を誘引してしまっている。

したがって、まずは沖縄以外の全国のすべての自治体を等しく潜在的候補地とし、日本全体の問題とすることで一人一人が当事者意識を持って考えていくことが重要ではないか。

私たちの提案は、「移設先探し」ではない。「本土の理解が得られない」という不合理な区分(=差別)である辺野古新基地建設を止め、代替案として沖縄以外の全国のすべての自治体を等しく潜在的な候補地とすること。そして、一人一人が当事者意識を持った国民的議論により、県外・国外を決定すべきというものである。国民的議論において普天間基地の代替施設が国内に必要だという結論が導かれた場合、特定地域に一方的に押し付けることにならないよう民主主義及び憲法の精神にのっとり公正な解決を求めるということだ。

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