日本はまた「戦争」をする国になってしまうのか~経営者に求められる覚悟

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戦争を知らない大人たち

人間の「怒り」や「憎しみ」といった感情は恐ろしい。一人の小さな怒りや憎しみが最後は殺人やテロ、戦争に繋がっていく。

1970年代初頭、『戦争を知らない子供たち』という歌が流行ったが、当時の戦争を知らない子供たちも、今では皆いい歳だ。

安倍晋三総理をはじめ現政権を担っている人たちや、中西宏明経団連会長など経済界の人たちも皆戦後生まれの「戦争を知らない大人たち」だ。

かつて、田中角栄元首相は「戦争を知らない世代が政治の中枢となった時は危ない」と言っていたそうだ。

北方領土視察で暴言の限りを尽くし、挙句の果てには戦争による領土奪還を口にして物議をかもした国会議員がいたが、戦争を放棄して平和国家になったはずのこの国で、いつの間にかまた戦争を肯定するような言動が目立つようになってきていることには激しい嫌悪感を禁じ得ない。

2015年、多くの憲法学者が違憲立法と指摘する安保法制が強行採決で成立し、武器輸出三原則が防衛装備移転三原則に置き換えられて、長く封じ込められてきた戦争ビジネスが実質解禁された。

防衛省主導のもと、経団連をはじめとした経済界もその動きを歓迎している。政権の暴走にあからさまに異を唱える経済人は一人もいない。

海外の武器展示会で、防衛副大臣が不慣れな手つきで武器を構える映像や、防衛省の課長クラスが「今後防衛産業を国家の成長産業にする」と公然と発言する映像がネットに流れたが、実におぞましい思いがした。

沖縄政策が示す現政権のスタンス

今年の広島、長崎の平和記念式典では、両市の市長が、国連の核兵器禁止条約に加わるよう、来賓の安倍総理にあらためて訴えかけた。だが、安倍総理は型通りのあいさつを繰り返しただけで核兵器禁止条約について触れることはなかった。

かつて、ICANのノーベル平和賞受賞に際しても冷たい対応に終始し、沖縄に対しても、何度も示された沖縄の民意に反して一貫して冷淡かつ強引な態度を取り続けていることは、現政権のスタンスを如実に示している。

本来、米軍基地負担を一身に担う沖縄へ寄り添い続けること、および唯一の被爆国として、核不拡散や核兵器の全面的な廃絶に向けて先頭に立って尽力し続けることは、日本国としての基本的立ち位置である。

それを自ら踏みにじるような数々の行為は、多くの国民にとって決して気持ちのよいものではない。

2年前、安倍総理が、長崎の被爆者代表に「あなたはどこの国の総理ですか?」と面と向かって問われていた光景はまさに鮮烈だった。

昨年2月、トランプ政権が米国の核戦略の指針「核態勢見直し(NPR)」を発表し、爆発力を小さくして機動性を高めた小型核兵器の導入に言及した際には、河野太郎外相が「高く評価する」という談話を発表したことにも驚いた。

米国は、世界で唯一、人類に対して実際に核攻撃を実施した国だ。その標的とされた我が国の責務は、今や同盟国である米国の暴走を煽ることではなく、抑えることであるのを間違えないでもらいたい。

憲法で明確に戦争を放棄した我が国を、強引な手法でなし崩し的にまた戦争が出来る国に仕立て直そうとするやり口は尋常ではない。

改憲はその総仕上げとしての目論見にしかみえない。参院選後も安倍総理は改憲に執心の様子だが、改憲を持ち出す前に、日本国憲法について「押し付けられたみっともない憲法」などと公言して現行憲法を軽視する態度こそをまずは改めていただきたい。

「歴史は繰り返す」というが、それは人間の寿命と関係している。悪しき歴史も悲惨な過去も、それを実際に体験した人たちがこの世からいなくなることによって、貴重な体験が忘れ去られたり薄まったりしてまた同じようなことを繰り返すからだ。

人間とは愚かな存在であることを自覚せねばならない。

戦後生まれの戦争を知らない世代がマジョリティとなって社会の要職を占めるようになると、「戦争は二度と起こしてはならない」という当たり前のことすらだんだんわからなくなっていく。田中角栄氏の予言がまさに現実となりつつあるのは実に恐ろしいことだ。

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