沖縄、貧しき豊かさの国――岸本建男と象設計集団が遺したもの【第1回 それは基本構想の時代だった――「復帰」と山原の地域づくり】

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竣工から43年目を迎える名護市庁舎。特異なデザインで際立つまちのランドマークをめぐって、地元・沖縄では保存か解体かの議論が静かに始まっている。当時、この建築の現場にかかわったのは、故岸本建男(元名護市長)をはじめとする名護市の若手職員と、本土の新進建築家グループ、象設計集団とその仲間たちだった。両者は、市庁舎建設に先立つ1970年代、「逆格差論」を掲げる『名護市総合開発・基本計画』の策定や、「21世紀の森公園」の整備にも深くかかわっている。本連載は、名護や今帰仁で起きた彼らの出会いと交流を、その場に立ち会った方々の証言から再構成し、「復帰」後の沖縄に垣間見えたもう一つの社会構想を紹介する。それは地域の自治と自立、消費経済に翻弄されない“貧しき豊かさ”への思想的試みであり、現在へ及ぶ日本社会の課題を浮き上がらせる視点でもある。


1971年秋、那覇の街で

おそらく1971年の秋のことであろう。國場幸一郎は、那覇の国際通りに近い美栄橋で見覚えのある青年に出会った。青年の名は岸本建男。早稲田大学の大学院を中退し、アルバイトをしながら1年余の世界旅行を敢行して、その年の夏に沖縄へ帰ってきていた。『沖縄タイムス』に連載した旅行記は、彼のジャーナリスティックな観察眼を伝えていて興味深い。もちろん、後に名護市の市長を二期務め、辺野古新基地建設をめぐる国との厳しい交渉の中で病に倒れ亡くなったその人である。

一方の國場は、父幸吉の設立した國場組に入社、設計部門を独立させた国建[くにけん]設計工務(現・国建)の代表を務めていた。二人は齢の差こそ一回り近いものの、沖縄出身者の学内交流組織、沖縄稲門会を通じて面識があった。

國場組は、敗戦までは日本軍関連工事などを請け負っていたが、戦後は米軍港湾荷役の請負などで復活し、キャンプハンセンの建設工事や映画館運営などで急成長を遂げていた。

幸一郎は建男に「どうした」と声をかけた。建男は、沖縄タイムスに入社しようと面接を受けてきたところだと返した。幸一郎は、「人の後ばかり追いかけまわして、事件めいたことを暴き立てるよりも、沖縄そのものを変える人になったら良い」と思い、国建を手伝わないかと誘った(國場幸一郎『私の沖縄と私の夢』、2004))。その言葉に建男は従った。担当したのは「沖縄開発計画プロジェクト」の事務局だったという。

国建時代の建男の活動はよく分からないが、大学時代の友人には海洋博関連の仕事をやっていると語っており、その中には国建が所有する恩納村のムーンビーチ開発も含まれていたようだ。建男はこの計画作業を通して象設計集団と出会ったと思われる。 幸一郎は前掲書に恩納村との経緯も記している。1958年に國場組に入社し、辺野古の現場へ赴任。工事用の砂を求めて恩納村を訪問した際に当山幸徳村長と知り合い、この地の観光開発を構想するようになった。1972年には、荒れ放題になっていたムーンビーチ海水浴場を買収、海洋博目当てのホテル建設だけでなく、村を巻き込んだリゾート開発を思い立つ。そのとき幸一郎の目に止まったのが、大学の後輩にあたる象設計集団だった。

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