竣工から43年目を迎える名護市庁舎。特異なデザインで際立つまちのランドマークをめぐって、地元・沖縄では保存か解体かの議論が静かに始まっている。当時、この建築の現場にかかわったのは、故岸本建男(元名護市長)をはじめとする名護市の若手職員と、本土の新進建築家グループ、象設計集団とその仲間たちだった。両者は、市庁舎建設に先立つ1970年代、「逆格差論」を掲げる『名護市総合開発・基本計画』の策定や、「21世紀の森公園」の整備にも深くかかわっている。本連載は、名護や今帰仁で起きた彼らの出会いと交流を、その場に立ち会った方々の証言から再構成し、「復帰」後の沖縄に垣間見えたもう一つの社会構想を紹介する。それは地域の自治と自立、消費経済に翻弄されない“貧しき豊かさ”への思想的試みであり、現在へ及ぶ日本社会の課題を浮き上がらせる視点でもある。
全国二段階コンペ
「象」の大竹康市の遺著『これが建築なのだ』(1995)の冒頭には、コンペについて書いた文章が載っている。曰く、1960年代の華々しいコンペの時代が62年の京都国際会館でピークを迎え、69年の箱根国際観光センターで終わりを告げた、と。箱根のコンペは、「白亜の殿堂づくり」を止め「自然環境と人工物の関係を根本的に考え直した新しい創造を求める」という趣旨だったので、大竹たちは奮い立ち、「快心の作」(ママ)を応募した。ところが蓋を開けてみると、他の応募作は従来のスタイルばかり。しかも一等案が実施されることはなかった。コンペの時代の終了を感じ取った彼らはもう応募しまいと決心する。それから10年、「コンペなしの七〇年代」が暮れかかる頃に、名護市庁舎のコンペ実施が発表されたのだ。
なぜコンペが行われたのか、理由ははっきりしない。一説によると、渡具知市長が象グループを嫌ったからだという。彼らの影響力が市政に影響を及ぼすことを嫌い、市庁舎の設計が随意契約に持ち込まれないようにしたというわけだ。ありえない話ではないが、ひどく手間のかかる算段である。公表されたコンペは、なんと全国公募かつ二段階の審査という実に大がかりなものだった。
1978年8月15日付で「名護市庁舎 企画設計競技 応募要項」が発表された。
市長の挨拶文に続く「競技の趣旨」は、地域特性を体現し、諸機能を果たし、シンボルとして愛されるものでなければならないと述べた後でこう書く。
「本競技を公開することの意義は、『沖縄における建築とは何か。』、『市庁舎はどうあるべきか。』という問いかけに対して、それを形姿として表現し、実体化しうる建築家とその案を広く求めることにある。」
この一文が放つインパクトは大きい。「沖縄にふさわしい建築」だったら、“沖縄らしさ”の演出のようなものへ横滑りする可能性がある。「沖縄における建築」はそれを求めているのではない。沖縄に不可欠な、または沖縄の本質へ迫る建築を見せてほしいと言っている。
さらにコンペ要項は、沖縄の自然と風土を改めて考察し、その上に立って「沖縄を表現しうる建築家の構想力」に期待するとして次のように述べる。
地域が中央に対決する視点を欠き、行政が国の末端機構としてのみ機能するような状況にあっては、地域はその自立と自治を喪失し、文化もまた中央との格差のみで価値判断がなされることになるだろう。
しかし、地域に生きる市民は、すでにこのようなあり方に訣別を告げるべきだと考えている。従って、主催者の期待している新しい市庁舎は、地域の人々が自らを確認し、かつ自らを主張していくための活動の拠点となり、地域の自立と自治を支える拠点としての市庁舎である。(「名護市庁舎 企画設計競技 応募要項」)