4本柱をめぐるせめぎ合い
清家の注文(背景には市の要望もあったのだろう)の一つは、外観のみならず内部空間を間切って並ぶ4本柱(列柱はすでに「象」の設計の肝になっていた)を1本に変えるというものだった。外部はともかく、執務室の空間(大部屋)を細切れにしかねない4本柱はまずいという意見である。
4本柱の必然性については、大竹がハード面の合理性からを説明している(前掲書)のに対し、樋口が私の質問に答えて大部屋の一望監視(パノプティコン)的機能の緩和という別の視点から言及していたのが印象に残っている。つまり、主役は利用者たる市民であり、職員が管理者然として見通しの良い空間を求めるのは見当違いだという主張である。
「アサギテラス」にも注文がついた。集落ごとの祭祀空間「神アサギ」を真似た市民の交流空間として設計されたものだが、屋外施設だから夏冬は使いにくかろうという懸念が示されたのだ。「象」は沖縄文化の取り込みや、暮らしの場と行政の場の連続性を重視していたから、「アサギテラス」は目玉の一つだ。夏冬は使いにくいといった常識的な意見は呑めない。
これらに加え、事務スペースの拡大や自然空調装置「風の道」への疑義が持ち出されたため、「象」と市の調整は3カ月に及び、しかも4本柱問題は最後まで残った。そこで審査委員の判断を再度仰ぐために市のホールに原寸模型をつくった。1本にも4本にもなる段ボールの柱をつくり、カウンターや机も実物を置いて役所の空間を再現し、審査委員を招いて検証を行った。
結論からいうと、四本柱問題は「象」側の妥協もあり解決した。事務スペース中央部の一列の柱群を抜いて大スパン構造に変えたからだ。構造設計担当の田中弥寿雄が、「風の道」に太い梁の機能も持たせようと提案したことで一件落着となったのである。
「象」が設計者のエゴを通したとする見方は一面的だろう。彼らが守ろうとしたのは、「地域の人々が自らを確認し、かつ自らを主張していくための活動の拠点となり、地域の自立と自治を支える拠点としての市庁舎」というコンペ要項の精神だったと思う。そして、発注者も審査委員も最終的にそれを認める腹の太さを持ち合わせていた。
建男の下で働いていた具志堅満昭は、当時の心境をこんなふうに語ってくれた。
「とにかくメチャクチャに忙しかったが、疲労感はありませんでした。徹夜で仕事して、また次の日も働く。でも充実していた。いい仕事をさせてもらっていると感じていました。できそうもない難しい仕事でも、建男さんが言うとできそうな気がしてくる。口ぐせは『イマジネーション』。想像できるものは実現できるとよく言っていた。本人もそう思っていたのでしょう。名護市の青春時代でした。その時代に居合わせた私たちは幸運だったと思ってますよ」
名護市庁舎が竣工したのは1981年6月。
この建築は、今帰仁村の中央公民館に導入された要素(列柱がつくり出すゆるやかな境界、断熱・空調に関するエコロジカルな発想など)を受け継ぎながら、もう一つ新たな意味を帯びていた。
それは、コンペ要項が求めた“地域の自治と自立の象徴”という役割である。市街地側の北面が親しみやすいヒナ段の形状になっているのとは対照的に、海に向かう南面が古代遺跡のようなスケール感と威圧感を持っているのはその役割から来ているのではないか。
いうまでもなく、自治と自立は護るものである。かつて南面のテラスの張り出しに設置されていた56体のシーサーは、きっとまちの護り手として海からやってくるものを睨みつけていたのだと私は考えている。
おわりに
この山原の物語には、前段も後段もある。岸本建男とその仲間たち、象グループのメンバー双方の“ビフォア&アフター”である。本稿は、その一端に触れるに留まった。物語の全体像は、近い将来、書籍のかたちで世に送り出したいと考えている。
前段は、主人公たちを含む早稲田大学の青春群像であり、後段は辺野新基地問題に巻き込まれた名護の市政と人々の心象風景である。さらに併せて書いてみたいのは、「逆格差論」に象徴される一連の思想(世界観)がその後に辿った道筋と、なお現在の日本社会に対して持つ大きな意味である。それは沖縄でも、もちろん本土でも十分論ずるに足るテーマであると信じている。
本稿を書くにあたり、多くの方から貴重な証言をいただき、多くの方の著作や論考を参照させていただきました。この場を借りて御礼を申し上げ、お名前と作品を掲げさせていただきます。
■お話をお聞かせいただいた方(敬称略)
稲嶺進 内田文雄 大城敬人 岸本能子 岸本洋平 具志堅強志 具志堅満昭 小林文人 佐久川一 四方進 重村力 島袋正敏 新城文 末吉司 田港朝茂 中村誠司 比嘉克己 樋口裕康 平井秀一 丸山欣也 村田邦雄
■参照・引用した資料・著作・論考など
『沖縄 恩納村基本構想』、象設計集団+アトリエ・モビル、1972
『名護市総合計画・基本構想』、名護市企画室、1973
『あしたの名護市1 土地利用基本計画』、名護市企画室、1974
『あしたの名護市2 第一次産業振興計画』、名護市企画室、1974
『あしたの名護市3 東海岸地区・内海地区・市街地の計画』、名護市企画室、1974
『あしたの名護市12 21世紀の森』、名護市都市計画課、1976
『今帰仁村 総合開発計画 基本構想』、今帰仁村企画室、1974
『今帰仁村 土地利用計画』、今帰仁村企画室、1975
『今帰仁村 第一次産業振興計画』、今帰仁村企画室、1976
『今帰仁村 くらしの基本構想』、今帰仁村企画室、1977
「名護市庁舎企画設計競技応募要項」、『名護市庁舎建築設計競技応募作品集』、名護市企画室、1979、所収
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『建築文化』1977年11月号、特集:象グループ・沖縄の仕事
『SD』1985年11月号、特集:象設計集団 Atelier Zo
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東一彦「山と川のある街――名護市「21世紀の森」構想」、『青い海』1977春季号(NO.61)
アルキテクト編『好きなことはやらずにはいられない――吉阪隆正との対話』、建築技術、2015
大竹康市・地井昭夫・重村力「山原の郷土計画から」、『建築雑誌』1975年5月号(vol.90 no.1093)
OJ会編著『これが建築なのだ――大竹康市番外地講座』、TOTO出版、1995
國場幸一郎『私の沖縄と私の夢――ひとりの沖縄建築家の軌跡』、新沖縄経済、2004
小林文人・島袋正敏編『おきなわの社会教育――自治・文化・地域おこし』、エイデル研究所、2002
佐藤学「名護市第一次総合計画基本構想 「逆格差論」の今日的意義-試論に向けて」、『沖縄法制研究』第23号、2021
重村力「山原の地域計画――自力建設による沖縄北部のまちづくり」、玉野井芳郎・清成忠男・中村尚司共編『地域主義――新しい思潮への理論と実践の試み』、学陽書房、1978、所収
杉岡碩夫「沖縄経済自立への道――「開発」を拒否する地域主義の芽生え」、『週刊エコノミスト』1975年7月22日号
地井昭夫『漁師はなぜ、海を向いて住むのか?――漁村・集住・海廊』、工作舎、2012
渡具知裕徳「名護市長としての礎を築いた青年団運動と沖青連――戦後沖縄青年団運動の証言(その4)」、聞き手:小林文人、『戦後沖縄青年団運動の証言――祖国復帰とアイデンティティ』、東京・沖縄・東アジア社会教育研究会(TOAFAEC)、2018
名護・やんばる社会教育を語る会編『やんばるの地域活動と社会教育――やんばる対談集』、東京・沖縄・東アジア社会教育研究会(TOAFAEC)、2018
中村誠司「地域農業振興の論理と方法――『名護市第一次産業振興計画』より」、『新沖縄文学』32号、1976
服部敦・宮道喜一・小阪亘「先駆的計画との対比に見る市町村総合計画の課題――名護市・読谷村の計画と最近の沖縄県内の計画との対比から」、『日本地域政策研究』第29号、2022
服部敦・宮道喜一・小阪亘「象設計集団が関与した沖縄県における地域計画の再評価に関する研究(その1):恩納村・名護市・今帰仁村の地域計画の相互比較と成立過程の検証」、『日本建築学会計画系論文集』第88巻 第807号、2023
服部敦・宮道喜一・小阪亘「象設計集団が関与した沖縄県における地域計画の再評価に関する研究(その2):設計作品における地域計画の概念及び手法の表出、『日本建築学会計画系論文集』第88巻 第813号、2023
平井秀一「ぼくらは沖縄・今帰仁村で何をしたか――コミュニティセンター覚書II」、『建築知識』1977年8月号
横山哲郎「名護市総合計画(1973-1987)下における地域社会・経済の変容――政治経済学的視点からの分析」、『地域経済学研究』第14号、2003
2004吉阪隆正展実行委員会編『吉阪隆正の迷宮――Takamasa YOSHIZAKA as A Labyrinth』、TOTO出版、2005
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『沖縄大百科事典』、沖縄タイムス社、1983