沖縄、貧しき豊かさの国――岸本建男と象設計集団が遺したもの【第5回 沖縄における建築とは何か――名護市庁舎の冒険】

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異例ずくめのコンペ要項

 コンペ要項の発信元は企画室内に置かれた設計競技事務局である。何人かの証言から、これを書いたのが岸本建男であることはほぼ間違いない。関係者の間には、建男が要項を一晩で書き上げたらしいという話も伝わっていた。

 コンペ要項の文章から感じ取れるのは、市庁舎という象徴的な建築を「地域主義」という一筋の糸で貫こうという強い想いと、今こそそのタイミングであるという切迫感だ。1970年の名護市誕生、72年の「復帰」、73年の『名護市基本構想』から「21世紀の森」を経て、名護が新しい時代を刻んできた経緯と意味を、今かたちにしておくことが必要だと建男は考えたのではないか。

 さらに、建築設計の条件には、当時のコンペではあまり例のない項目がいくつか挙げられていた。中でも目を引くのは、省資源・省エネルギー、冷房の全面的使用を排する空調方式、現地で調達できる材料や施工能力を求めているところだ。

1972年に国際的なシンクタンク、ローマクラブが「成長の限界」と題した報告書を発表して大きな注目は集めたものの、日本の近代建築でこれに応える作例はまだほとんどなかった。しかも亜熱帯の沖縄で公共建築の冷房に制約をかけるのは異例のことだ。

さらに、鉄筋コンクリート造に代表される材料・工法の均質性・汎用性は近代建築の通念だったから、「地元」優先の考え方は時代錯誤にさえ映ったのではないか。

 しかし、この異例ずくめのコンペ要項は、建築関係者に大きな衝撃と期待を抱かせた。

 1978年11月30日の受付締め切りまでに提出された応募作品は308点。すべてがパネルに貼られ、審査会場の「名護市青年の家」に設計説明書と共に展示された。企画室の具志堅満昭は、徹夜で青焼き図面を作成し、会場の壁に掲示したことをよく覚えている。

 「象」の面々も要項のメッセージに揺り動かされた。樋口裕康によれば、自分も大竹も要項を読んで初めて“やる気にになった”。それでもジョーク好きの習いが抜けない樋口が、沖縄はクルマ社会だからドライブスルー形式の市庁舎はどうだと提案すると大竹は本気で怒ったという。その大竹は、象設計集団の案はコンペ要項の問いかけに「真っ向から取り組んだもの」(大竹前掲書)であるとやや気負った調子で書いている。その結果は、第一次コンペ(企画設計競技)の4次に及ぶ選考に勝ち残る(5作品のうちの一つ)というかたちで表れた。

 樋口・大竹・富田の造形が目を引く一方で、エコロジカルな工夫も注目を集めた。中でも一番ユニークだったのは「風の道」だろう。2m×2mの筒で南北の方向に建物を貫き、海風を吸い込んでは送り出す装置である。冷房に代えて心地よい風で夏季の暑熱を和らげるという発想は、(実効はともかく)実に優雅なイノベーションだった。

 第二次コンペ(基本設計競技)では、一次を通過した5作品が模型を伴って再提出され、2日間にわたる審査が行われた。審査委員長は清家清、副委員長格が槇文彦。第1席はTeam Zoo 象設計集団。第2席は杉建築設計事務所、第3席は福井大学工学部建築学科だった。

清家は「象」の案を「全体のたたずまいがよい」と認めたものの、内部の4本柱や外部の「あさぎテラス」の改善も同時に求めた。この頃、「象」の面々は蔵王スキー場にいた。雪山合宿に参加した各人の心境には「どうせダメだろう」も「こいつは楽勝だろう」もあったようだから、彼らも勝利を確信していたわけではないらしい。そこへ、めでたい報せと厄介な注文の両方が同時に届いたのである。

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