沖縄、貧しき豊かさの国――岸本建男と象設計集団が遺したもの【第3回 名護の梁山泊――若者たちの出会いと交流】

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竣工から43年目を迎える名護市庁舎。特異なデザインで際立つまちのランドマークをめぐって、地元・沖縄では保存か解体かの議論が静かに始まっている。当時、この建築の現場にかかわったのは、故岸本建男(元名護市長)をはじめとする名護市の若手職員と、本土の新進建築家グループ、象設計集団とその仲間たちだった。両者は、市庁舎建設に先立つ1970年代、「逆格差論」を掲げる『名護市総合開発・基本計画』の策定や、「21世紀の森公園」の整備にも深くかかわっている。本連載は、名護や今帰仁で起きた彼らの出会いと交流を、その場に立ち会った方々の証言から再構成し、「復帰」後の沖縄に垣間見えたもう一つの社会構想を紹介する。それは地域の自治と自立、消費経済に翻弄されない“貧しき豊かさ”への思想的試みであり、現在へ及ぶ日本社会の課題を浮き上がらせる視点でもある。


企画室のアフターファイブ

名護市役所に入所した岸本建男が最初に配属されたのは企画室である。後に旧名護博物館となる市庁舎は東江1丁目の番所跡にあり、企画室は新設部署だったせいか中庭のプレハブに入っていた。室長は新聞記者の経験を持つ東一彦。当時の沖縄では、役所の企画室はまだ珍しい部門である。渡具知市長は、新しい施策をここからつくり出していくつもりだったのだろう。

 プレハブの企画室は、庁舎とはわずかに離れた空間だったため、若手職員のたまり場になっていた。夕方5時を過ぎると、ビールや泡盛がどこからともなく現れ、三々五々に馴染みの顔が集まってくる。後に博物館長になる島袋正敏[せいびん]のように、歩いて10分以上かかる教育委員会(旧米琉会館、現在の市庁舎のある場所)からわざわざ出向いてくる者もいた。

アルコールを飲みながらの話題は、各自の業務に関することに留まらず、名護のまちの様子や県政・国政の動向にも及んだだろう。「復帰」直後で、やらねばならない仕事は山積みだったが、一方には立ち止まって考えざるをえない問題も無数にあった。彼らは革新の渡具知市政を支えるスタッフであり(部屋には市長の似顔絵がぶらさがっていたという)、海洋博が巻き起こした混乱を批判的に見るところでは基本的に一致していた。

 建男がやってきたのは、こんな職場だった。最初は特に目に引く存在ではなかったという証言もあるが、すぐに頭角を現した。皆が熱っぽく新しいことを求める空気の中で、彼は人を惹きつける何かを発信していた。

 具志堅満昭は、名護高校から琉球大学へ進学し、指導教授の山里将晃に『名護市基本構想』を見せられて興味を覚え、プレハブの職場に建男を訪ねている。忙しい昼間はほったらかしにされたが、夕方になると建男に居酒屋へ誘われた。肝心の『名護市基本構想』の話はあまり出なかったものの、世界旅行の体験や自身が名護・沖縄に抱く想いをたっぷり聞かされた。満昭は「スケールのでかい人がいるな」と感じ入った。2年後、大学を卒業した彼は、県庁や銀行を捨てて名護市役所に就職した。

 プレハブで交わされた議論の内容は、残念ながら追跡のしようがない。中には独自の視点や発想もあっただろうが、ほぼすべては過ぎた時間と共に消え去っている。ただ、その中から一つの会が生まれたことを記しておきたい。

旧名護博物館(旧市庁舎の建物)=筆者撮影

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