沖縄、貧しき豊かさの国――岸本建男と象設計集団が遺したもの【第3回 名護の梁山泊――若者たちの出会いと交流】

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「21世紀の森」と自力建設

建男らの行動と象グループの作業はほぼ同期している。公園構想は1974年に「象」が策定した市街地計画で具体化され、全体構想が市の広報を通じて市民に公開された。「21世紀の森」というネーミングはこのあたりから前面へ出てくる。当時の企画室のトップ、東一彦は雑誌の記事(「山と川のある街」、『青い海』、1977年春季号)で計画や建設の経緯を詳しく述べている。

 東は埋め立て地を「森」に変える意味について、「二一世紀に生きる市民が『人間らしく生きられる』都市空間として『森』が想定され、しかもその『森』は、市民自らの参加によって、次の世代への贈り物として創造されなければならない」(前掲書)と述べた。

 「森」は先に引いた「緑の触手」を意味している。さらに「市民自らの参加」を具体化すべく、公園の構想段階では、小中学校23校の児童生徒にまちづくりについて作文を書かせ、広く市民には埋め立て地の植樹や種まきを呼び掛けた。大人たちはモクマオの苗木を植え、子どもたちはハスノハギリの種子を植えた。「森」を自力でつくり出そうという行動だ。

「市民参加」はこの頃から使われるようになった言葉だろう(正敏は「『市民参加』という言葉は建男が入ってきてから、さかんに使われるようになった」と語っている)。「市民参加」は外部資本による開発に対抗する「自立」「自力」へもつながるし、「参加」の記憶が世代を超えて伝わることへの期待もあっただろう。

野球場・サッカー場や野外ステージ、後に整備されたビーチなどのスポーツ・文化施設は、今でも市民が活用する現役のコミュニティ空間であり、北海道日本ハムファイターズの春期キャンプ地として知られる球場はまちの名を全国に知らせる役目も果たした。

当時の事情を知る人物によれば、公園整備の市側負担分は、その一部を埋め立て地に通したバイパス(後に国道58号線へ昇格)の売却益でまかなったという。つまり、「21世紀の森」は、市の資産を国に売って資金を稼ぎつつ、「市民参加」という実績をつくり出すという二重の作戦に基づいて行われたことになる。建男はこのようにして、行政的手腕と政治的センスを併せ持つ若手リーダーとして登場してきたのである。

名護市21世紀の森公園(筆者撮影)

もう一つの梁山泊

 「21世紀の森」の計画・設計とほぼ同じ時期に今帰仁村の村づくり計画が始まっていた。

今帰仁村も他の市町村と同様、「復帰」に伴う地方自治法の適用で、地域構想・計画の策定が求められていたのである。隣の名護市で早々に基本構想ができ上がったと聞いて、今帰仁村の松田幸福村長は、企画担当の田港朝茂[たみなとともしげ]を名護市役所に出向かせた。松田村長は渡具知市長と同じ革新系首長であり、名護と同路線の地域計画には違和感がなかったのだろう。加えて、名護で審議委員を務めた山里将晃(琉球大教授)らの強い勧めもあったという。

こうして象グループは、今帰仁村にも出入りするようになる。計画策定の「象」側の担当には、名護市の第一次産業振興計画を書いた中村誠司が就いた。沖縄のリーダーだった大竹はやや手薄と見たのか、吉阪研究室からやってきたばかりの平井秀一も送り込んだ。

 もっとも修士1年の若い平井は喜び勇んで沖縄へやってきたわけではなかった。声は掛かったものの旅費が支給されず、航空運賃は自腹を切った。初めて降り立った空港はやたらに暑く、北部へ向かうバスは曲がりくねった道を延々と走り続けた。名護に着いてみると、東江[あがりえ]の合宿所には、素性の知れない「沖縄病」の若者たちも出入りしていた。毎晩交わされる酒と喧々囂々の議論。これはまるで梁山泊だと彼は苦々しく思った。

 この“もう一つの梁山泊”には建男もよく訪れた。夜9時を回る頃、仕事を終えた彼がやってくると居合わせた「象」のメンバーも一緒にまちへ出て行く。未明まで飲んで話し込み、勘定を払うのはたいてい建男の方だったらしい。

建男は「象」の自由で屈託のない雰囲気が気に入っていたのだろう。アカデミックでありながら、権威主義に遠い言葉遣いや身のこなしを好ましく思っていた。それに何より彼らはアーキテクトだった。建男は両親の命名通り、二次元の印刷物よりも重力に逆らって天へ伸びる建築が好きだった。

もう一つ言い添えておきたいのは、二つの「梁山泊」を身構えることなく自在に行き来していたのはたぶん建男だけであることだ。この人物の性格は少々分かりにくいが、特徴の一つは複数の集団を遠慮も衒いもなく渡り歩ける能力だったのではないか。しかも、どんな集団にあっても、穏当で適切なリーダーシップを発揮した。さらにリーダーであることが不断の懇切な気配りを意味することもしっかりわきまえていた。ジーパンにゴム草履姿で庁舎内を闊歩する建男には、そういう資質がごく自然に備わっていたのである。

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