沖縄、貧しき豊かさの国――岸本建男と象設計集団が遺したもの【第3回 名護の梁山泊――若者たちの出会いと交流】

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地域自治研究会の13人

それは建男が音頭を取ってつくった「名護市地域自治研究会」という集まりだった。これからの「地域自治」を考え、若手職員から市政のあるべき姿を模索していこうという趣旨だったのだろう。雑談の中から自然発生的に生まれたためか、会の目的やルールを定めた文書は残されていないようだし、メンバリングの基準も分からない。

 とりあえず合意されたのは、週に1回、市役所の隣の城山ホテルの3階の部屋を借り、定期的に会合を開くこと。月に5000円の会費を徴収すること。『名護市基本構想』を当面の教材にすること。そして、飲み代は各自で負担することなどであった。

 集まったのは次の13人である。

 東一彦、稲嶺敏男、大城利明、岸本建男、喜屋武良隆、具志堅満昭、玉城利明、中村誠司、仲村彦次、原昭夫(途中参加)、比嘉哲、比嘉進、比嘉正志。

所属部署は、企画室・都市計画課・総務課・農林課・教育委員会などばらばらだが、全員が市の職員である(原は東京都庁から転職してきた本土人である)。

まず皆で、『名護市基本構想』を読み直した。正敏によれば、「ここに書いてあることは本当なのか」という気持ちがあったという。そこで、マイクロバスに乗って地域巡検を行った。合併して間もないため、自身の地元以外は名護のことをそれほど知らなかったからだ。原河[げんか]のオーシッタイ(大湿帯)を訪れて、電気が通っていないことを初めて知るなどということもあった。

 正敏はこう語っている。

「毎回、飲んだ。飲んで取っ組み合いの喧嘩をしながら続けた。メンバーは20代から30代初め。月に5000円の会費は積み立てて、僕らよりさらに若い職員を県内外の研修へ送り出した。どこか先進地域へ行って、何かを見てこい体験してこいと。それは出しっ放し、返済の必要はない。若い連中に投資したつもりだった」

集まったメンバーの心意気が伝わってくる。まだ30代の行政人たちが、自分たちに続く世代を育てようとしている。「復帰」直後の熱く柔らかな心情を次につなげなくてはという気持ちが伝わってくる。

「地域自治研究会」は学習や議論に留まらず、事業にもかかわった。糸満出身のKさんという人物が割り箸工場をつくりたいと相談に来たことがあった。自生しているハンノキを材料にするという。工場用地も確保していたので、メンバーは休日を返上して整地作業を手伝った。Kさんの失踪などもあって事業化には至らなかったが、『名護市基本構想』が重視した「地場産業」を自力で実現しようとする試みだった。

「地域自治研究会」は数年続いた。残念ながらその記録は残っていない。会のメンバーによれば、機関誌『烽火』[のろし]を準備していたものの、予定していた原稿が集まらず、発行には至らなかった模様である。

しかし、“名護の梁山泊”はかかわった人々の記憶に残り、その後の彼らの活動に方向を与えた。『名護市基本構想』は会の中で読み込まれ、検証されて共有知になった。「象」の若者たちの思考や作業は、行政計画の範疇を超えて沖縄の青年たち(かつ本土のごく一部の人々)にも届いた。『名護市基本構想』の歴史的意義は、そこに記された思想的内容だけでなく、この企まざるコラボレーションにもあったのではないか、と私は考えている。

埋め立て地を公園に

 建男が若手リーダーとしてはっきり頭角を現したのは、名護湾の埋め立て地利用について、渡具知市長へ建言を行った頃からだったのではないだろうか。

 名護湾はかつて弓のように弧を描く美しい浜だったが、1970年の名護市発足(1町4村の合併)を機に埋め立てが決まった。1972年10月着工、74年3月竣工、30ヘクタールの広大な埋め立て地が出現した。当初は工場誘致を図ったものの不調に終わり、次いで住宅用地に変更されたがこれも思わしくなかったようである。

 建男らはこの土地を公園にしようと主張した。『名護市基本構想』には、まだ公園の計画はないが、名護湾を囲むように聳える名護岳・嘉津宇[かつう]岳・久志岳・多野岳から市街地へ「緑の触手」を伸ばしてこようという企図が述べられている。あたかもこの企てに沿うように、彼らは渡具知市長に直談判し、既決の利用計画を公園づくりへ転換させてしまった。いったん議会を通過した計画を別のものへ変えるのは異例だが、ことは動き出してしまったのである。

 ジャーナリストの杉岡碩夫[せきお]は、雑誌の取材に応えて建男が口にした「親の恥は子の恥」という言葉を書き留めている。埋め立ては前任者の仕業(としたのは杉岡だろうが、埋め立てを主導したのは現任者の市長である)だから責任はないというのは、“都市すなわち流亡者の集まる場所の論理”であり、自然と文化を受け継ぐ“定住者の論理”を持つ名護では、前任者の誤りも自らの誤りと受け止める、公園づくりはその克服を目指す行動だというのだ(『週刊エコノミスト』1975年7月22日号)。

一方の渡具知は、この事態をどのように受け止めていたのだろうか。

ある対談の中で、土地利用計画の変更は高校生からの問いかけがきっかけになったと語っている。高校生は市長に向かって「本当に自然を壊していいんですか」と質した。市長は若者の心情に同意しつつ、「これに代わるものをつくって、市民に提供すればプラスマイナスゼロにならんかな」と答えた(小林文人との対談「名護市長としての礎を築いた青年団運動と沖青連」、2018)。問答の真偽は確かめようがないが、渡具知は自身が決めた埋め立てに負い目を感じていたことを伝えたかったのかもしれない。市の若手グループはそんな市長を横合いから突いたのではないか。

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