初代最高裁裁判官になれなかった大浜信泉①八重山生まれの国際的法律家

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いわゆる立身出世を遂げた沖縄出身者としては、真っ先に大浜信泉(おおはま・のぶもと)の名前が挙がる。戦後日本の混乱期、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)と対峙しながら極めて重要な役割を果たしたものの、現在では沖縄ですら知らない人が多く、ましてや本土日本人にはほとんど無名に近い。ひとえにそれは、あまりにも「沖縄」という枠に評価が限定され、人物像が正当に伝わらなかったためだ。

1891(明治24)年、石垣島に生まれた大浜は、苦学して弁護士になった後、母校早稲田大学に招かれて法学者に。早大総長を3期12年(1954~66年)務めながら、私学振興(日本私立大学連盟会長など歴任)に貢献し、全国大学教授連合会会長やユネスコ国際大学協会執行委員も兼ねた。また空手や野球の全国組織を率い、大学生のオリンピックと称される「ユニバーシアード東京大会」組織委員会会長なども歴任。「黒い霧」事件(八百長疑惑)で地に落ちたプロ野球界の再建を担って日本野球機構コミッショナーにも就く。

沖縄の日本復帰(日本再併合・施政権返還)交渉では、南方同胞援護会など各種組織の調整役を担い、佐藤栄作首相の沖縄訪問の際には特別顧問として同行した。

復帰後も、沖縄国際海洋博覧会協会会長や沖縄振興開発審議会委員代表として意欲を見せたが、海洋博閉幕(1976年)からひと月も経たずに、病に倒れ84歳で急逝。プロ野球機構・早稲田大学・沖縄海洋博協会・沖縄協会・日本青年奉仕協会よる合同葬が執り行われる。没後に勲一等旭日桐花大綬章を受章。

早大総長在任中、肩書が幾つあるか把握しかねて秘書が数えたところ、50はあった。私的なもの、小さな団体の肩書もあり、さらに総長退任後は活動の幅が広がったので、その数は増える一方だったという(日本経済新聞「私の履歴書」)。国内外多岐にわたる活動は全国紙の紙面を飾ることも多く、学園闘争の余波をうけて総長を辞任した際には全国紙の社会面トップ記事になった。

妻・英子(京都出身)は、戦前から市川房枝、吉岡弥生らと婦人の地位向上に奔走し、また「婦人同志会」発足には幹事として加わった。人事調停法に基づく国内最初の調停委員に選出され、雑誌『法律時報』の座談会では末弘嚴太郞・穗積重遠・ 我妻榮らと同席する存在だった。

戦後も、女性弁護士の草分け、三淵嘉子(NHK朝の連続テレビ小説「虎に翼」の主人公)らと雑誌座談会で、新時代にふさわしい民法の在り方について語り合う。中央選挙管理委員会委員長や国民生活センター会長に就く一方で、読売新聞の名物企画「人生案内」や女性誌で「身の上相談」の回答者を務めるなど庶民的な面もあり、夫を上回るほどの有名人だった。在京メディアには「おしどり夫婦」として取り上げられ、日本で最も有名な、そして理想的な夫婦として知られた。

幼少期の大浜は、琉球王府時代の髪型(カタカシラ)を結っていた。琉球国から琉球藩、やがて沖縄県と時勢が激しく移り変わる時期、「旧慣温存策」(急激な変化を避けて社会制度を20世紀初頭まで残した政策)の中で青年期を過ごした。大阪で開催された内国勧業博覧会で琉球人女性が展示された「人類館事件」は12歳のときだ。八重山の人々に参政権が与えられたのは1919年(大浜27歳)で、それまでは「日本人」ではなかった。沖縄人への差別・偏見が強かった時代、しかも沖縄本島からはるか南、八重山から笈を負い上京したのだ。そのことを考え合わせると、日本社会の階層の中で上り詰めたその地位は驚きでもある。「日本復帰」から50年余経った現在でも、大浜を上回るほどの知識人・有名人は見当たらない。

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