日本人としてのアイデンティティー
八重山を含めた先島は、琉球王府に征服されてその版図に入った歴史があり、沖縄本島側から抑圧・差別されてきたという意識が強い。先島への過酷な人頭税は大浜が12歳のころまで科されており、首里王府から派遣されてきたマーラン船に向けられた怨嗟の声を生身で聞いている。ウチナーンチュ(沖縄本島人)が、ヤマトンチュ(日本人)に向ける敵意や眼差しを、大浜は距離感をもって見ていたに違いない。
加えて、明治政府と中国が、沖縄の帰属を巡って争った「分島問題」(1881年)では、沖縄本島は日本領土、八重山は中国領土となることで合意された経緯がある。前米国大統領の斡旋もあって、日本の通商活動拡大と引き換えに、八重山を中国に譲り渡すことを認めたのだ(1972年の「糸と縄」の交換=沖縄の施政権返還と米国繊維産業保護の取引=を想起させる)。紆余曲折あってご破算となるが、それは大浜の生まれるわずか10年前のこと。「中国人」になる寸前だった島人の、その複雑な感情を肌身で感じていただろう。大国間の都合次第で取引される屈辱を、八重山の人々はサンフランシスコ平和条約、日本復帰を含めて三度、味わった。
一方で、沖縄戦とそれに続く米軍による異民族支配という点では、先島も同じ境遇にあった。日本軍による強制疎開が原因となった八重山の戦争マラリアでは、大浜も父母と長姉の3人を失っている。大浜の中では、「八重山人(エーマンチュ)」「沖縄人(ウチナーンチュ)」「日本人(ジャパニーズ)」という、三つのアイデンティティーがそれぞれ同心円を描き、重層的に折り重なっていただろう。
それでも日本復帰に際し、沖縄独立論や信託統治論なども叫ばれる中、大浜は一貫して「沖縄人が日本人であることに疑いはない」という立場を崩さなかった。
ミスター沖縄」 4つの銅像
「ミスター沖縄」と称された大浜の功績を称え、ゆかりの地に銅像が三つ建てられた。海洋博跡地(沖縄美ら海水族館所在地)、大浜が主導して設立した沖縄国際大学、そして八重山高校の構内に。その後、故郷石垣市には顕彰施設「大濱信泉記念館」が設立され、新たに胸像も建てられた。
ただ、米軍基地がそのまま残った復帰だったゆえ、沖縄での評価は手厳しかった。
『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社)では、人物項目としては異例ともいえる長い分量で紹介されており、末尾はこう締めくくられている。「大陸的な芒洋とした風貌、頑健なうえに現実処理能力抜群で〈早稲田のマフィア〉と称された。沖縄では私大統合問題をはじめ政府寄りの姿勢にたいする風当たりが強く、一方では沖縄出身者中の出世頭とされ、実業家タイプの細心果敢、強い行動力は沖縄人離れしているとも見られた。しかし、本土では、寛濶で大樹のような個性が沖縄的と見られ、近代的合理主義に立った典型的なプラグマチストと私学育ちの浪花節的人情家との共存と評価される」
執筆した由井晶子(元沖縄タイムス社編集局長)は早稲田OBで、在学時から大浜の人となりを知るだけに、かなり踏み込んだ評価をしている。
その他の文献も含め、大浜を巡っては「基地オキナワ」というネガティブな側面に偏って人物評が下されてきことは否めない。だが、実際の大浜は「日本・沖縄」という枠を超えて、世界に目を向けていた。欧州留学帰りの成果をまとめた著書が先輩教授から「アカ」と批判されたこともあった。治安維持法が施行された直後、大浜の主宰する研究会から共産党事件に連座して逮捕者が出て、解散に追い込まれた。戦後も、時の政権や世論に抗って共産中国や台湾との国際交流を断行、また外国資金導入による学術交流に踏み切った。タブーとされていた旧日本軍のアジア軍政に関する研究所を早稲田学内に設置したが、それはナショナリズム研究で知られるB・アンダーソンの成果にもつながっていく。