「サンマデモクラシー」と「人頭税」廃止 -時代を動かした二つの異議申し立て

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魚卸業の女将が起こした「サンマ裁判」

 アメリカ統治下の沖縄で起きた「サンマ裁判」を題材にした映画、『サンマデモクラシー』が公開されている。サンマへの輸入関税をめぐる魚卸売業の女将の裁判奮闘記が活写されていて画面から目が離せない。

 税の観点から沖縄の近現代史を振り返ると、このサンマ裁判と、明治期の人頭税廃止が印象深い。どちらも税をめぐる異議申し立てだが、そのエネルギーが沖縄の社会と政治を巻き込み、時代を大きく動かすことになった点は共通している。

 サンマ裁判が起こされたのは1963年。沖縄で「日本の味」として食べられるようになったサンマには輸入関税がかけられていた。ところが、当時の物品法の課税品目にサンマは含まれていなかった。琉球政府は、米国民政府の行政指導によってサンマに課税していたのである(米統治下の沖縄で、琉球政府は沖縄住民側の自治機関であったが、最終的権限は米軍の沖縄統治機関である米国民政府が掌握していた)。

これに対して糸満の魚卸業の女将・玉城ウシが、琉球政府を相手取って徴収された税金の還付を求めて訴訟を起こし、勝訴したのであった。

「沖縄の帝王」の強権から反発へ

 その後、同じように還付を求める裁判が起こされたが、アメリカによる沖縄統治のトップ、高等弁務官は布令によって課税品目にサンマを追加し、さらにこれら魚類について、課税を遡及して有効だとした。

「沖縄の帝王」とも言われた高等弁務官は現役の米軍人から選任されており、中でも玉城ウシが裁判を起こしたときのキャラウェイ高等弁務官は、「沖縄の自治は神話である」と言い切って波紋を広げ、強権的な言動から「キャラウェイ旋風」と呼ばれた。

 1962年にはケネディ大統領が沖縄新政策を発表し、日米協調路線を打ち出したが、キャラウェイをはじめとする現地の米軍は、財政援助増大によって日本政府が沖縄に干渉することを嫌ったともいわれる。

 第二のサンマ裁判は上級審で審理がつづけられている最中に、高等弁務官の移送命令によって米国民政府裁判所に移された。しかし、この措置は司法の独立を損なうものとして、大きな社会問題となった。それは折から政治問題化していた教育関係者の政治活動を制限する法案に対する反発とも相まって、復帰運動の大きなうねりへとつながっていく。この一連の動きを、映画では「サンマデモクラシー」と呼んだわけである。

他方で裁判について言えば、移送後の判決では納税者が負けたが、係争中だった同様のサンマ裁判は復帰後に日本の裁判所に引き継がれ、納税者の勝訴となった。

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