人頭税からの解放
公爵近衛篤麿は一行の話に感涙し、大隈重信侯は改革に協力すると約束して10円と菓子折りを持たせ、元外相の副島種臣は病をおして面会、一行が帰るときは付き人に支えられて玄関まで見送った。宮古では厳しい弾圧やデマ、中傷がはびこったが、農民は一行の帰任まで上納を拒絶し、上京した一行の行動に呼応した。
明治27年、一行が国会に届けた「宮古島々費軽減及島政改革請願」が奏功し、帰島した一行を出迎える大歓迎会が鏡原馬場で催された。今に伝わる「保良真牛がアヤグ」(人頭税廃止を喜ぶクイチャー〔宮古の民謡と踊り〕)は、当時の農民の感激を謳いあげたものである。宮古農民の請願は、日清戦争を控える中での国境地域の問題でもあり、政府は直ちに担当官を沖縄に派遣し、「沖縄県における諸制度の改正は租税制度の改正にして租税制度の改正は土地そのものの改正にあり」とした。
租税制度を改正するにあたっては、土地制度を改正し、農民の土地所有を認める必要があった。租税の個人負担がない限り、参政権を付与することもできなかったからである。
明治32年、土地整理事業が着手され、土地所有権の確定等の事業が終了した明治36年、宮古、八重山に地租条例、国税徴収法が施行され、農民は270年にわたる過酷な人頭税から解放された。20世紀の世まで人頭税が存置されたことになる。
廃止運動に命をかけた宮古の若者
土地整理、人頭税の廃止は、沖縄にとって第二の明治維新であった。土地の付属物でしかなかった人間が土地の所有者となり、農民ははじめて封建体制から解放された。
那覇市の奥武山公園に、当時の沖縄県知事、奈良原繁を讃える「改租記念の碑」がある。そこには、廃止運動に命をかけた宮古の若者の名前はない。しかし、このような偉大なる青春群像の犠牲奉仕の大精神があったことも忘れてはならない。
人頭税廃止は、税制の改正にとどまらず、沖縄の諸制度改革への原動力、出発点となった。その功績は不滅であり、沖縄近代史における金字塔的事績なのである。
【本稿は「『人頭税』廃止100年」『沖縄タイムス』(2002年11月10日)をもとに改稿したものです】