沖縄、貧しき豊かさの国――岸本建男と象設計集団が遺したもの【第1回 それは基本構想の時代だった――「復帰」と山原の地域づくり】

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象が沖縄に上陸した頃 

象設計集団は、吉阪隆正早稲田大学教授の設計アトリエ「U研究室」から出た建築家のグループである。創業メンバーは、樋口裕康、大竹康市、富田玲子の三人。彼らは、吉阪流の自立学習主義(自らから挑み自ら学ぶ)とでもいうべきカルチャーに鍛えられ、1971年に独立・起業を果たす。とはいうものの無名の彼らが順風満帆で出航したわけではない。

乏しい案件で会社をやりくりする中、吉阪経由でもたらされた沖縄とのつながりは貴重なものに映った。はじめの仕事は、コザ市(現・沖縄市)につくる「沖縄こどもの国」。1971年にマスタープランを策定し、翌年には核施設の「こども博物館」と合わせて完成にこぎつけた。ただし、発注者の南方同胞援護会(沖縄・小笠原の地域支援を政府に代わって行った特殊法人)から得た報酬は大きなものではなかった。創業メンバーの一人、樋口は「ワンウェイ・チケット」という言葉で当時の窮状を語っている。

幸いだったのは、彼らに先んじて沖縄の自然・文化に触れ、人的ネットワークをつくっていた仲間がいたことだ。同じく早稲田で建築を学んだ丸山欣也である。丸山は吉阪門下ではないが、学部時代から樋口と交流があった。早稲田で國場幸房(幸一郎の弟)の卒業制作を手伝った縁で、1963年夏、幸房に誘われて沖縄へ渡った。1カ月半かけて本島と八重山諸島を巡り、「大きなショックを受けた」と語っている。

丸山は卒業と共にスイスへ渡るが、4年後に帰国すると再び沖縄へ向かう。国建の仕事を手伝っているうちに「象」から声がかかった。「沖縄こどもの国」は「象」と丸山(アトリエ・モビル)の初の共同設計作品である。

「こどもの国」の中央に位置する「こども博物館」は、三方が土に埋もれ、池に面する東側だけが立面を形成する建築である。沖縄の石造文化の伝統(石垣・亀甲墓・アーチ橋…)に着目し、その現代版ともいうべきブロック建築の素材や方法を導入したことが知られている。すでに取り壊され、写真でしか見ることができないが、花ブロックで組み上げられ、赤く塗装された外壁は、沖縄の街場の住宅につながる素朴さや逞しさを感じさせる。

 こうして沖縄の最初の仕事をこなした彼らが、次に請けたのが、今や沖縄最大のリゾートエリアとなった恩納村[おんなそん]の基本構想づくりだった。

恩納村、幻の基本構想

恩納村の基本構想を依頼してきたのは「沖縄綜合開発研究会」という実体の定かでない団体だった(事務局は那覇市久茂地の国建内に置かれていた)。構想策定の趣旨は、海洋博ブームに乗って不動産の買い占めに乗り出した本土資本に対抗し、恩納村の立場から全体的・長期的なむらづくりと開発方針をまとめるというものだった。事前の打ち合わせで骨格はできていたようだが、現地調査と実際の作成にあてられた時間はかなり短期間だった。

 「象」のチームは、早稲田の大学院に籍を置く重村力[しげむらつとむ](現・いるか設計集団代表)をメインの書き手に据えて、昼夜ぶっ通しの作業で、B4、40ページほどの計画書を仕上げた。

 冒頭に掲げられたのは「1. 計画の精神」という基本方針であり、「村の自立へ」という文言に集約された三つの命題である。一つめは「美しい自然を護ること(海中・海岸・山)」、二つめは「村の将来を村自身の手で握ること」、三つめは「生活環境、生活基盤の整備」。

各命題に付された文章は、自然との調和を重んじる生活と産業、住民の自発・創意に基づく村独自の考え方を求め、より具体的には、第一次産業・地場産業の科学的再構築と外部大資本導入の抑制、村がコントロールしうる規模の観光開発などの施策提案を織り込んだ。

どうやら発注者側が目論んでいたのは、西海岸の自然公園の制約の中で「集団施設地区」(ホテルなどの施設が建設可能な地区)を設けるための開発計画の策定だった。本来は自治体自らが行うべき計画づくりが「象」に回ってきたということである。

そういう事情を知った計画書の書き手は、米軍と内外の資本に浸食され荒廃しかかった地域の現況を報告する一方で、海・山などの自然や村民の暮らしが内包する「潜在的資源」をつかみ出そうと呼びかけている。村民自身も気付いていない可能性を見いだすことで、新しい村の形態や産業の再構築を示そうとしたのである。

当然ながらその筆致には、海洋博ブームに歩調を合わせた開発主義への異議申し立てが含まれていた。つまり経済人にとってははなはだ青臭い「反資本」の計画書と映った。だから発注者は猛然と計画書の主旨に反対し、一部の文章の修正を求めた。しかし受注者が相手の要請を受け入れなかったために、國場ビルで行われた会議は紛糾した。最終的に「象」の『恩納村基本構想』はボツになった。

 建男は国建の社員として、こうした一部始終を近くから見ていたか、または近くにいた人物から聞いていた。彼は「象」の『恩納村基本構想』に共感を覚え、その基本姿勢を自身が生まれ育った名護市のまちづくりに生かしたいと考えるに至ったのであろう。

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