沖縄、貧しき豊かさの国――岸本建男と象設計集団が遺したもの【第1回 それは基本構想の時代だった――「復帰」と山原の地域づくり】

この記事の執筆者

名護で描いたビジョン

 建男は1943年、名護市宇茂佐[うむさ]に生まれ育った。父親の転勤に伴って中学3年の秋に那覇へ移り、首里高校から早稲田大学政経学部へ進学した。早稲田時代の建男については機会を改めて書くつもりなので省く。大学院を中退し、先に触れたように世界旅行に出て、1971年夏に沖縄へ戻ってきた。国建に入社した経緯は本稿の冒頭に記した通りである。

 建男は1年と少しで国建を辞め、名護市役所に入所したが、その経緯ははっきりしない。『恩納村基本構想』が完成したもののボツになったのは1972年10月、建男が名護市役所に入所したのは1973年5月である。その間に長男洋平(現・名護市議会議員)が誕生しているが、父親になった建男の様子を私はつかめていない。

 名護市役所へ招いたのは当時の渡具知裕徳市長だったという説もあるし、仲介に立った人物の名前も何人か挙がっているが決定的な証拠はない。ただ、人材の需要供給関係でいえば、「復帰」後の沖縄では企画・計画をこなせる行政人が不足していたこと、それゆえ役所の側がそれまでほとんど所内にいなかった大卒職員を必要としたことである。

 もう一方の「象」がどのように名護市へ接近したのか、これも定かではない。恩納村の仕事が行政人の間に伝わっていたかもしれないし、建男が直接、「象」を市に紹介した可能性もある。重村は、自身が編んだ『漁師はなぜ、海を向いて住むのか?』(地井昭夫著、2012)の「解説」の中で、この経緯を「(恩納村の――引用者)隣の名護市ののちに市長になる企画室の岸本建男から、それならこちらでやってくれとの依頼を受け」たと記している。依頼されたのは、いうまでもなく名護市の基本構想である。

 「復帰」によって本土の法制度が適用された結果、沖縄の各市町村は地方自治法によって地域の基本構想や総合計画の策定を求められた。沖縄にはその手の作業に手慣れた設計事務所やコンサルタントは少なかっただろう。(ボツになったとはいえ)恩納村の実績はものを言ったかもしれない。

 1973年7月、『名護市総合計画・基本構想』が完成する。本土でも注目を集めた「逆格差論」を織り込んだ画期的な地域づくり計画である。B4判、80ページのレポートは、堂々たるボリュームと密度の濃い内容で、『恩納村基本構想』をかなり上回っている。

 内容は全7章で構成されており、基本方針を掲げる「第1章 計画の視点」の中に「逆格差論の立場」が置かれている。「第2章 計画の主旨」には「計画の原則」として、3つの命題が立てられている。

 1 美しい自然を守ること(自然保護の原則)

 2 生活・生産基盤の確立(基盤確立の原則)

 3 市の将来を市民自身の手で握ること(住民自治の原則)

一見して分かるように、『恩納村基本構想』の「計画の精神」で挙げられた三箇条にほぼ重なり、趣旨を説明する文章もきわめて近い。おそらく起点にあっては、恩納村と名護市の構想・計画は双子のような存在だった。ただ、その後、双子の一方は大きく育ち、周辺地域と後の時代に少なからぬ影響を与えることになったのである。

この記事の執筆者