度重なる「悲痛の声」を反映した行動は、国家だけではなく本土の人々にも無視をされてきた。届いていても、知っていても無視をされる。米軍廃棄物に自分の生活を脅かされない人々にとってはどうでも良いことなのだろう。
その姿勢こそが、米軍基地を過重に背負わされている沖縄県民を苦しめているのであり、その姿勢こそが国家がいう「本土の理解が得られない、辺野古唯一」という発言に集約されてきた。結局のところ、憲法を守れという人でさえも憲法第14条に違反しこの事態を黙認してきた。
宮城秋乃氏がなぜ弾薬を投げたのか、弾薬を投げつけるに至るまでこの状況を放置してきた人は一体誰なのか、氏が一人で背負ってきてしまった結果を「罪」として切り取るだけで終わる話なのか。
「そのような危険な行為を止めるべき」という言葉を使ってトーンポリシングをする人は、決まって本土の人々であり「非暴力」をうたう人である。「暴力は絶対にダメ」「方法を変えるべきだ」といったトーンポリシングとマウントとマンスプレイニングの三拍子で説教を垂れる人には良く聞いて欲しいのであるが、わずか50年の歴史を遡ると、これまでの方法では本土からは基地が減少し、沖縄では基地が増設されるということが証明されていることについて、徹底的に総括して欲しい。
こうしたさも善人であるかのような物言いをする人が、今回の氏の行動を「暴力」と見做し、いとも簡単に切り捨てていた。本当の罪人は誰なのであろうかと全国民で考察する必要がある。
宮城秋乃氏が投げた米軍廃棄物である銃弾は、支障除去を完了した防衛省の見解では北部訓練場返還地に現在は存在していないことになっている。それを元に考えると、氏が投げたものは、存在しなかったものであり何でもないのである。当然、何でもないのであれば、投げられた側が「当たる」はずもない。しかし、被害届が提出され、告訴された。国家はこの事件を受け止めた途端、国家の隠蔽を隠しきれない状況に追いつめられたのである。
強いられている「労」
これは、選挙期間中に宮城秋乃氏が銃弾を投げつけたことによって、より明るみとなったことであり、無視を決め込んできた本土の人々を当てにせず、たった一人で国家という暴力に挑んだ結果である。基地を押し付け、押し付けた基地による被害に対して見て見ぬフリをしてきた本土の人々に、とやかく言える権利などない。申し訳ないと深く反省することしか出来ないはずである。
本書で見つけて欲しいことは、これまでに至る苦しみや悲しみがどれだけ詰まっているのか、どれだけの労力があり、積み重ねがあり、疲労があったのか、そしてそれは望んでいた「労」ではなく、強いられている「労」であり、強いている張本人は、本土の人々であることだ。
ぜひ、手にとってご一読ください。書籍の売り上げの一部を、宮城秋乃氏の裁判費用などに充てます。
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