沖縄、貧しき豊かさの国――岸本建男と象設計集団が遺したもの【第2回 逆格差論のスケッチ――政策批判と暮しの思想】

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構想づくりの担い手たち 

では、『名護市基本構想』は、誰によってどんな経緯で策定されたのだろうか。

 渡具知市長名の「はじめに」(序文)の対向ページには、審議委員の名前がずらりと並んでいる。市議会議員や市役所の幹部、業界・地域団体の代表たちと共に、山里将晃ら琉球大学の教授も名を連ねている。審議委員一覧の下には、事務局として建男を含む企画室の3名の名もある。

 他方、最終ページには計画作成スタッフとして象設計集団やアトリエ・モビルなどのメンバー18名が記されている。スタッフのヘッドは、大竹康市(象設計集団)、地井昭夫(広島工業大学講師)、小路紀光[しょうじのりみつ](都市環境計画研究所)の3名である(大竹と地井はすでに鬼籍に入っている)。

 象グループが『名護市基本構想』に着手したのは、1972年末か73年の初頭だと思われる。発行は73年7月だから少なく見積もっても半年はあったはずだが、彼らは徹底的なフィールドワークを重視していたし、審議委員とのやりとりにかなりの時間を割いたとの証言もあるから、それほど余裕があったわけではないだろう。

名護に乗り込んだのは、沖縄担当リーダーの大竹をはじめ『恩納村基本構想』のスタッフだが、恩納村の中心メンバーだった重村が仙台の都市計画プロジェクトに参加することになり、代わりに広島工大で教えていた地井が沖縄へ呼ばれた。

「逆格差論」の発想・命名をはじめ、地井が果たした役割は大きい。没後に刊行された著書『漁師はなぜ、海を向いて住むのか?』(2012)を見ると、特に力を入れていた漁村空間の分析などには、民俗学と建築学の知見を重ね合わせる独特の視線がある。その地井が、「沖縄の人びとの力強い生活と文化に、ほとんど圧倒的ともいえるショックを受け」(前掲書)、山原のワークスタイルとライフスタイルを意味付けるために編み出したのが「逆格差論」だった。

ただ発想の経緯からいうと、「逆格差論」は、吉阪率いるU研の「大島元町復興計画」(1965~69)の調査で獲得した「発見的方法」から出たものである。

「発見的方法」とは、あらかじめ特定の(先入観に基づく)方法で調査に臨むのではなく、自分の足と眼で歩き回るうちに「<私たちによって作り変えられるべき世界>ではなく、全く逆に<私たちひとりひとりがそれによって支えられている世界>を発見する」(前掲書)態度だと説明されている。そうやって曇った目をぬぐって見れば、それぞれの土地には(そこの住民も気付いていない)「潜在的資源」が眠っている。「逆格差論」が政治的メッセージに留まらず、「発見的方法」「潜在的資源」と三位一体の社会認識論(地域を起点とする社会認識の方法論)でもあることは強調しておいていいと思う。

「所得格差論」で沖縄を見るな。目の前にある名護の暮らしを見つめれば、そこには気付かれていない豊かな資源がある――『名護市基本構想』のバックボーンをなす論理がこうして生まれたのである。

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