逆格差論の論理
「逆格差論」は、『沖縄大百科事典』(1983)にも立項されている。執筆者は中村誠司。名護・今帰仁の一連のまちづくり計画や名護市史編纂で大きな役割を果たした人物である。項目解説はコンパクトだが、要点をつかんで明晰である。
「(逆格差論とは――引用者)<所得格差論>にたいする概念で、<生活逆格差論>といってもよく、『名護市総合計画・基本構想』(1973)で提起された論議。<所得格差論>が県民所得などの名目の県民一人当たりのGNPであるのにたいし、現実的な家計収入における収入と消費(支出)の<地域的バランス>をみる」(以下略)
つまり、抽象的な「所得」ではなく、具体的な「家計」を見れば、沖縄はそれほど貧しいわけではない、住宅費・食費・衣服費などは本土よりずっと低く、暮らしには余裕があるという論旨だ。
中村があえて「論議」と書いたのは、「所得格差」を論拠に工業を押し込み、工場労働へ動員しようとする本土発の経済政策は「収奪」以外の何物でもないという問題提起が議論を招いたからだろう。それでも、名護市議会は『名護市基本構想』を可決した。
私は、「逆格差論」には二つの側面があると考えている。
一つは、上に述べてきたような、「所得格差論」の隠された意図を暴く論争的な側面である。新崎盛暉の「構造的差別」に倣っていえば、「構造的収奪」を追及する論理である。
ただ、こうした本土の政策批判に留まるのではなく、山原の“当たり前の”生活とそこに息づく思想(世界観)を描き出したところに「逆格差論」のもう一つの意義があったことも確かだ。
『名護市基本構想』には、以下のような記述もある。
「地域の将来にとって必要なことは、経済的格差だけを見ることではなく、それをふまえた上で、むしろ地域住民の生命や生活、文化を支えてきた美しい自然、豊かな生産のもつ、都市への逆・格差をはっきりと認識し、それを基本とした豊かな生活を、自立的に建設して行くことではないだろうか。その時はじめて、都市も息を吹き返すことになるであろう」
今から50年前に那覇から名護へやってきた女性はこんなふうに語ってくれた。
「夕方、子どもを連れて海に行くでしょう。近所の子たちもやってきて一緒に海で遊ぶんですが、ほったらかしで、大人は誰も見ていない。…それで友人と二人で役所にお願いして幼児園をつくりました。
…保育園が少ない時代でしたから、子どもたちは20人近く集まりました。近所のお姉ちゃんたちも手伝ってくれたものです。名護にはそういう地域のつながりや助け合いの気風が残っていたんです。それを見て、ここは子育てにはいいところだなと思いました。地域の文化度も高く、屋部[やぶ]には今でも組踊が残っています。名護の人たちには、ごく自然に逆格差論が分かるんですよ。東京へ出ていった子どもたちが戻ってくるのは、ここに別の豊かさがあることを知っているからなんです」
語ってくれたのは、故岸本建男の妻、岸本能子[たかこ]である。
農業と公民館
一方的な工業化や開発主義を排し、名護の住民が自身の力で立っていくためには、まず地域の産業と社会のあり方をしっかり定める必要があった。『名護市基本構想』が「産業計画の方向」と「社会計画の方向」という2つのチャプターで述べたのは、第一次産業を中心とする産業振興と地域共同体に基づく村づくり・町づくりだ。いずれも自立的な地域づくりの方策である。
産業振興の基軸は、まず農業に求められた。当時、名護の農業生産額は沖縄でも三本指に入っており、後にトップの石垣市を抜く。初代市長の渡具知裕徳は、名護町役場で農業普及員を務めていたこともあり、農業振興には積極的だった。
沖縄の農業は、1960年代の特恵措置によってサトウキビとパインの単作経営に転換し、製糖業・加工業への本土資本の流入によってモノカルチャー化(産業の単一化)が完成する。いきおい耕地面積は拡大したがその分だけ粗放化(土地利用率低下)が進んで反収が減少、必然的に離農と兼業化を招いた(山地丘陵部のパイン畑造園は赤土流出を生み出し、海の汚染も引き起こした)。
『名護市基本構想』が示したのは、こうした悪循環を断つ農業のあり方だった。合理的に見えて実は農の力を弱める単作経営から脱し、「山原型土地利用」(海に向かい水系に沿って短冊形の独立した農地・集落を形成する土地利用形態)に立ち返って、これにふさわしい家族労働主体の複合経営や地域を単位とする集落農業を確立し、労働力や技術を流通させる協業・共同組織の構築を求めた(実行計画『第一次産業振興計画』(1974)では、さらに詳細な施策のプログラムが提示されている)。
また地場産業の育成も、自立基盤を安定させるために重要な課題とされた。地域産品の加工など第一次産業との連携や、比較的小規模の事業者の育成が求められている。地場産業は住民にとっても安心な兼業の場になるからだ。
もう一方の村づくり・町づくりは、公民館活動を起点に、集落→集落グループ→地区→全市域へ結合を広げていく社会活動として捉えられている。集落ごとに設けられた公民館(集落公民館/字公民館)は、住民の暮らしに直結するコミュニティの核であり、行政事務や共同の生産活動から年中行事やまつり、子育てや教育、伝統芸能などの文化活動まで幅広い営みが行われていた。活動の基盤になっているのは、住民たちの相互扶助的な共同体意識だ。この社会的な仕組みを抜きに山原の地域社会の維持・再生はありえないと計画者は考えたのである。
農業と公民館――あえてシンプルにいえば、「自立」とは、豊かな自然を背景に、この二つの土台に両足を乗せて踏ん張ることではないか、と「逆格差論」は主張していたように感じる。
名護市屋部公民館(筆者撮影)