沖縄県民投票~忘れてはいけない「一人の少女」

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記憶とファクト

 

なぜ衝撃だったのか。

それは少女暴行事件が戦後の沖縄に残っていた生々しい記憶を呼び起こしたからではないか、という話を方々で聞いた。いくつかのファクトを沖縄タイムス2016年6月18日に発行した特別紙面から抜き出しておこう。

・沖縄の面積が日本全体の0・6%なのに、米軍基地の負担率は74・4%に達する。

・戦後10年目=1955年には沖縄の負担率は11%に過ぎなかった。それが増えてきたのは、本土から沖縄に駐在した海兵隊の存在だった。

・1945年以降発生した強姦殺人、殺人、交通死亡、強姦の被害者数は少なく見積もっても(資料や文献で確認できるもの)だけで、620人超に上る。その中には生後9ヶ月の乳児もいた。

・米軍統治下の沖縄では米兵への捜査権、逮捕権、裁判権は制限されており、米軍が開いた法廷で明らかな有罪であっても「無罪」が言い渡されることが日常茶飯で起きていたこと。

少女暴行事件はこれらの記憶を蘇らせたということだ。事件はやがて、1995年10月21日に大規模な県民大会に発展した。立ち上がった人々の怒りによって、翌1996年4月に電撃的と形容される普天間基地返還が決まった。

歴史に基づくリアルな感情を共有すると「今」の見方が変わる。戦後の歴史の延長線上に少女暴行事件、大きな反対運動がある。声を上げた結果、日米政府は普天間を返すと言った。少女暴行事件があったにもかかわらず、問題はいつの間にか普天間返還から、辺野古沖への移設が争点となり、やがて埋め立てて新基地建設という話になり……。

そして、20数年の時を経て県民投票に結びつく。

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