Ⅱ 沖縄戦を理解するための大前提
【1】1944年3月以後→第32軍の創設と沖縄移駐=全統治
沖縄戦を戦った第32軍の総勢10万人余りが1944年以後に沖縄へ行くことになりますが、彼らはほとんど体一つ、武器だけを持って来たようなものです。その他の生活物資はほとんどを現地調達。当時の沖縄の人口は60万弱でした。
そこに10万の軍隊が来ることによって、どうなるか。誰でもわかると思いますが、衣・食・住のうち特に「食」と「住」。いろいろな体験記を読むと、軍隊が来ると学校などの公共施設が実質的に接収されて、村々の大きな家屋敷には士官級が入り込み、兵隊も各民家に入って、その家々の作物や飼育している家畜などを食べたという証言がざらにあります。
これが中国大陸の戦線であれば、三光作戦。焼き尽くし・殺し尽くし・奪い尽くしになるのでしょうが、沖縄はとにもかくにも日本国内ですから、そこまではしませんでしたが大変な負担を急に背負わされたようなものです。そして、実際に沖縄戦が始まると「住」(=壕)と「食」で凄惨な事件が起こることになります。
それと軍隊の特質についてですが、ずいぶん前に、沖縄の女性グループが沖縄に日本軍の慰安所が百何十カ所あったことを調べていますよね。これが中国大陸であれば、犯し・殺すになりますが、沖縄ではそこまではいきませんでしたけれども、この慰安所について泉知事は、「まがりなりにもここは日本帝国の国内だ。皇土に慰安所を作るなど認められない」と沖縄に慰安所をつくることに抵抗したといわれています。「中国など外国だったらいい」というようなニュアンスがないでもありませんが、とにかく、この点でも嶋田知事とは違う。
そして第32軍が来ることによって、沖縄の各地で戦争準備のための陣地構築が行われました。全島を要塞化するための陣地構築以外で重要なのは飛行場と防空・避難壕の建設でしょう。1944年には伊江島飛行場、北飛行場(読谷)、中飛行場(嘉手納・北谷)など、各地で飛行場建設が進んでいきます。突貫工事です。誰がやるかといったら、労働力になる沖縄の老若男女を強制的に動員してやるわけです。軍への供出による生活物資の逼迫と労力になる人間のコントロールが島嶼社会の隅々にまでおおいかぶさって、島社会が一変していったことがわかるでしょう。
【2】1944年7月以後→疎開令の閣議決定、「陸軍防衛召集規則」等
そのような事態が進行するなかで、次々と緊急の疎開や「陸軍防衛召集規則」といった軍事のための、さまざまな決定や規則が住民に向けられていきます。行政面から沖縄県が発したものと、軍が戦闘面から発した徴用の命令などです。
第32軍が来ることによって、沖縄は軍と県の2本立ての統治が行われる。軍隊による統帥大権と県による政治大権のふたつによる戦争準備です。この2つの大権は独立した権限ですから、むやみやたらに軍が県に命令するなど介入できないのですが、現実は戦争を目の前にしている以上、沖縄県は軍隊の支援なしには効果的な仕事をする見通しが立たない。
ですから疎開にしても、また軍隊のために食糧を増産する計画についても、第32軍の戦略を邪魔しないように、軍の後方支援として県の仕事を行うことにならざるをえない。実質的には県の従属的な二人三脚で進んでいくわけです。
だから泉知事では具合が悪かったんです。繰り返しますが、第32軍が来てのちの沖縄は、政治・行政・生活のあらゆるものが軍事至上になったこと、この状況を理解しないと嶋田県政が具体的にどんな仕事をしていたのかまったく理解できません。
軍事施設への攻撃
なお、先ほど陣地構築の話をしましたが、1944年の夏が終わる頃には伊江島飛行場や北飛行場、中飛行場建設などが一段落するのですけれど、そうした沖縄の軍事化をキャッチして、それに打撃を加える目的で米軍が攻撃してきたのが十・十空襲です。
米軍のいわゆる沖縄侵攻の第一段階です。米軍はこのとき、秋になって気が向いたから攻撃しに来たのではありません。米軍は1945年3月26日に慶良間諸島、4月1日に北谷・嘉手納の海岸に上陸しますが、その上陸作戦をより安全、スムーズにする目的で、沖縄各地の軍事施設を叩いておく必要があったわけです。
ですから、那覇の攻撃も港湾・軍事施設が主たる目標で、飛行場関係もみんな破壊されました。軍隊や軍事施設がないところに爆弾を落とすことは、当面の軍事戦略からは重要性がなく、弾薬の無駄遣いですから当然でしょう。
アメリカ軍は、沖縄戦が始まる数年前から沖縄の地理や施設などを、上空からの撮影で情報収集していました。沖縄県公文書館には首里城を爆撃する前の写真などが収蔵されていて、瓦礫になる以前の美しいたたずまいがよくわかります。那覇だけでなく、ほかの町村もみんな調べられています。
ですから、なぜ米軍が沖縄を攻撃目標にして侵攻したか、どうして10月10日に大空襲があったのか、沖縄で地獄の戦闘が起こったことの大きな要因は、第32軍の進駐抜きには説明できません。
それから、疎開についてですが、1945年3月下旬から4月にかけて米軍が中部に上陸すると、沖縄島が真ん中から分断されて、北部への疎開ができなくなります。何万もの人びとが避難できないまま、住民は右往左往することになる。
それまでに沖縄から九州へ6万人、台湾に2万人ぐらい疎開していますが、途中、潜水艦による撃沈で多くの人が亡くなっていました。対馬丸もその一つです。その当時、疎開で九州やヤンバルに子どもたちだけ行かせるというのは、今の感覚と全然違います。「どこに? 食べ物は? 誰が世話をするんだ?」の不安が真っ先にあったのは言うまでもありません。
疎開の対象は、軍にとって直接必要のない年端もいかない子どもと老人で、その代わり、食糧増産や陣地構築などに役立つ労力は欲しかったから、バリバリ働ける親世代や若者は疎開できませんでした。住民の不安な持ちと生活を軽視した疎開が当初進まなかったのは当然だったのです。