嶋田叡知事は沖縄戦での「恩人」か?(下)

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講演録 沖縄戦時の知事・島田叡と戦争責任

この10年ばかり、沖縄戦で没した戦前最後の官選 沖縄県知事・嶋田(あきら)が、書籍や映画でさかんに取り上げられるなど注目を集めている。だが、嶋田知事は本当に戦時下の沖縄住民にとって命の「恩人」だったのか。これまでの沖縄戦研究をふまえて、その実像と歴史的評価について、沖縄近現代史家の伊佐眞一氏が語った。


Ⅳ 公人と私人

【1】大日本帝国政府内務省の官僚

嶋田知事や荒井警察部長のことを考えるときに、彼らの職務・本務が何であったかということが何より重要です。彼らは大日本帝国の意思を代表するバリバリの内務官僚でした。彼らの信念というのは、今の民主主義の中で育った私たちにはちょっと理解しがたい。彼らの国家に対する奉公心や忠誠心、これはほんとに半端じゃない。

 私は嶋田叡が上海の租界(占領地のような地区です)赴任中の1941年に書いた文章――暗殺された先輩への追悼文(「赤木親之先輩に捧ぐ」『警察協会雑誌』第495号、1941〈昭和16〉年8月)を入手したのですが、この中に彼の国家官僚としての信念がよく出ています。文章のはしばしに国家への奉公心と犠牲精神が何にもまして一番大事だということを書いているんですね。この追悼文には内務官僚として国民を統治していく心構えが、特別高等警察(いわゆる特高)を中核とする内務省警保局官僚の姿として、鮮やかに表現されています。

彼らの職務の真髄は「生命身体を国家の躍進に捧げ」る精神だとも強調していますが、これは誇張でなく、本音そのままだったと、嶋田や荒井の沖縄戦での仕事ぶりからしても、みごとに実証しています。ですから、ある意味、筋金入りの内務省出身の知事が沖縄に来たのは、恐ろしいことだったとも言えるのではないか。戦火を生き延びた人間はともかく、死への道連れになった人間が何万もいたのですから。

 それからもうひとつ、5月下旬に軍が首里の司令部を放棄して南部に撤退をすることになったとき、住民と軍の混在によって、住民の犠牲が増えるからとの理由で、嶋田知事が島尻への撤退につよく反対したと言われています。

確たる証拠はないのですが、これは先ほども言及したように、軍の戦略は統帥大権の中心ですから、県(文官)による軍事戦略への介入はとうてい認められない。そのことを嶋田知事が知らないはずはない。南部撤退以外の余地はないのでしょうか、などとやんわりと言ったことはありえるでしょうが、作戦変更の強い要請や要求はなかったと考えるのが自然です。

2公権力を失った一個人

そこで、沖縄戦の最末期、県庁の命令系統などすべてが崩壊したあと、嶋田さんは自分の身の回りを世話してくれた人や少年警察官に、「体に気をつけて頑張りなさいよ。命を粗末にしないで」などと言ったとかの証言があります。

それは事実でしょう。しかし、それは何の行政権力も有しない状況で発した、彼個人のたんなる温情的な言葉にすぎません。どこにでもいるフツーの男性の私情にすぎません。家族や隣近所のひとどうしの会話と同じです。「官選」知事たる職務としての公的発言じゃないんです。「命を粗末にしてはならない」と市町村長たちに周知徹底させる県の方針が通知されたのではありません。そんなことは一度もないし、そんな公文書はどこにもないのです。

つまり、このときの嶋田さんの言葉は公権力を失った一個人、「ただのおじさん」としての思いだったのです。その公私の違いをはっきりと区別しないと、人情ばなしのヒューマンな県知事になってしまう。

 これまでの嶋田知事、荒井警察部長の顕彰は、彼らの生真面目な性格、スポーツマン、そして島尻戦線のなかでどことも知れず死んだ面を強調したものが多い。こうして、最も肝心な公職の中身とは関係のない人間性や家庭人につながる親近感に焦点をあてると、彼らの政治責任はどこかへ吹っ飛んでしまいます。それはやがて、牛島司令官や長参謀長など軍事上の責任者も免責されることにつながりかねない。

現在、南西諸島では米軍に加えて自衛隊のミサイルが中国に照準をあてるなど、沖縄の島しまの要塞化が急速に進行している状況がありますが、それを下支えする歴史解釈としても、ゆるがせにできない重大な問題です。

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