編者が語る~座談会「つながる沖縄近現代史」【中】

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2021年11月に発刊された『つながる沖縄近現代史』(ボーダーインク刊)の共編者、秋山道宏・沖縄国際大学准教授(39)、古波藏契・明治学院大学社会学部付属研究所研究員(31)、前田勇樹・琉球大学附属図書館一般職員(31)の3人に沖縄の近現代史のポイントを解説してもらった。

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【復帰運動の流れと総括】

―沖縄戦を経て沖縄を統治したのは米国でした。米軍統治下で沖縄の人たちが日本復帰を望むようになった経緯を教えてください。

古波藏 復帰運動は50年代の島ぐるみ闘争の延長と捉えられがちですが、実際はそうではありません。復帰運動と島ぐるみ闘争は構造も背景も異なります。島ぐるみ闘争は「銃剣とブルドーザー」という言葉に示される米軍の強権的な土地接収に対する住民の反発がきっかけです。これは一義的には地主の問題です。にもかかわらず、「土地闘争」ではなく、土地を所有しない人たちも含む「島ぐるみ闘争」に発展したところが肝なんです。

押さえておかなければいけないのは、基地経済の限界ゆえに島ぐるみ闘争が起きたということ。米国の沖縄政策は、他国政府の介入を受けずに沖縄の基地を自由に使うことが基本。そのためには施政権と住民の合意もしくは黙認が必要です。それを両立するために発明されたのが基地経済でした。

基地経済の主眼は、米軍基地の建設と復興を両立させることでした。日本本土から生活物資や建設資材を輸入し、住民に基地をつくらせ、お金を稼がせる。それで全員が生活できたのではなく、当然限界がある。しかし、当時の統計データを見ると、ほぼ完全雇用を達成しています。このギャップを埋めたのは農業でした。50年代を通じて農業従事者は増えています。軍作業は、基地建設が終われば失業する不安定な雇用形態です。失業した人たちは実家に戻って農業を手伝い、農業従事者としてカウントされていました。つまり、農業が基地経済だけでは生活できない人たちのセーフティネットになっていたわけです。都市部でも出身地別の「郷友会」という組織を通じ、ムラ的なネットワークは維持されていました。そこに米軍の土地接収が起きたわけです。

島ぐるみ闘争時の資料を読むと、「農地を奪われたらやっていけない」という切実な声が目立ちます。これは潜在失業者の受け皿をどうするんだ、という訴えです。土地闘争ピーク時の集会には15万~20万人が参加しました。当時の沖縄の人口は約80万人ですから4人に1人です。これは空前絶後の熱狂といえます。自分の利害で動いた人ばかり、とは到底考えられない。ムラ社会が維持されていたがゆえに、地主以外も巻き込む広がりを見せたのが島ぐるみ闘争の特徴です。

―ではなぜ、島ぐるみ闘争は復帰運動と区別しなければいけないのでしょう。

古波藏 復帰運動が本格化した60年代は「保革対立」の時代に移行しています。労働者は労働組合に加入し、経営者は経営者団体を組織している。各々の利害関心に即した組織化を進めているわけです。これは保革対立に近い構造で、「島ぐるみ」でまとまる状況ではありません。復帰運動が盛り上がる背景には、島ぐるみ闘争をきっかけに米国が沖縄統治の手法を見直したことが挙げられます。それまでの強権的な統治ではなく、懐柔ベースに変わっていきます。基地を自由に使うためには住民と折り合いをつける必要があると考え、まずは経済政策の見直しに着手しました。

要点は三つ。一つは日本本土との格差是正。住民の不満は日本本土との格差でした。この格差を埋める必要がありました。二つ目は、基地経済自体が島ぐるみ闘争の時点で限界に来ていたということ。基地は建設が終われば雇用を吸収できなくなるため、限界を取り繕う必要がありました。三つ目が近代化です。米議会外交委員会の委託を受けた米国の調査会社が59年に「おそらく復帰運動は止められない」と報告しています。なぜなら沖縄社会が近代化しているから、というのです。近代化すれば人々は自分自身の利害関心を意識するようになる。そして人々が各々の利害関心に沿って合理的に振る舞うようになれば、復帰に向かうのは必然だと予見しています。

同時に、それは恐れるに足りないとも言っています。島ぐるみ闘争時は、運動が政治的に過激化することを米国は懸念していましたが、近代化の延長線上にある復帰運動であれば米国の利益にかなうと判断しているからです。米国が沖縄に対してやるべき最も賢いやり方は「復帰のタイミングを考えることだ」と。米国にとって好ましいタイミングで日本復帰が実現すれば、日米が軍事協定を結び、沖縄の基地機能を損なわず施政権のみ日本に返すことは可能と踏んでいます。そこには、沖縄の復帰運動もそれに異を唱えないであろう、ということが含意されています。これってそっくりそのまま現実に起きた復帰なんですよ。

―なるほど。1959年時点に米国内部で提示されていたシナリオ通りに沖縄の日本復帰が進んだと。どうしてそうなってしまったんでしょう?

古波藏 米国が取り組んだのは、復帰運動が過激化しないよう穏健に育成することでした。そのために労働政策にも手を加えます。共産主義に通じる労働運動はすべてつぶせ、というスタンスだったのが、ホワイトハウスの後ろ盾を得た「国際自由労連」という西側諸国の労働運動の連合体の助言を受けて変化します。国際自由労連は「労働者は自分たちの生活向上しか本来関心がないはずだから、それさえ聞き届けてやればいい。頭ごなしに叩くから本来反発しない者も共産主義になびくんだ」と説きました。米軍当局もこれを受け入れ、弾圧的な労働政策を撤回し、労働運動を穏健に育成する方向に変えていきます。労働組合が成長する過程と復帰運動が発展する時期は重なっています。

復帰運動の主軸は労働組合が担いました。米国はまず労働運動から共産主義者を追放しました。これにより、労組内部は中道左派寄りの社会大衆党の影響力が増していきます。米軍は復帰運動の道を開くことと、運動が過激化しないよう制御する両方を後押ししたのが実態です。

復帰運動にかかわった人の中にはいろんな意見があったと思います。米軍基地の返還が必須という人もいれば、とりあえず復帰さえできればいいという人たちもいました。このどちらも抱え込んだ形で復帰運動は発展しました。それを束ねることができたのは、琉球政府最後の主席で初代沖縄県知事の屋良朝苗さんです。彼はイデオロギー的には空っぽであまり強いこだわりがない人でした。だからこそ、みんなの神輿になれた。そのことを誰よりも米軍がわかっていました。

68年に実施された主席公選で屋良さんが勝ちます。この選挙前、沖縄を統治した米国民政府は屋良さんと紳士協定を結んでいました。一つは、主席就任後の琉球政府の局長人事で共産主義者を排除すること。もう一つは、復帰運動の母体である復帰協(沖縄県祖国復帰協議会)の縛りを受けない、と約束していました。

主席公選の直後に 沖縄で米空軍爆撃B52が墜落し、一気に反基地運動を盛り上げようとする人たちが労働組合の中にいましたが、屋良さんはそれを押さえ込み、火消し役に回りました。沖縄の人に自分たちの代弁者的な役回りをさせるのが、日本政府と米軍にとって最も都合のいい統治形態でした。そういう意味で、革新系の主席であるほうが抑えが効くと判断したわけです。米国がそういう形に復帰運動を誘導していった側面は見逃せません。日米政府が沖縄を裏切って復帰後も米軍基地を押し付けた、という論調が沖縄に根強くありますが、結局、沖縄側が合意を与えたんじゃないか、という批判もあるわけです。内在的で批判的な復帰運動の総括が必要です。でないと、日本復帰によって米軍基地はなくなっていないのに、なぜ復帰運動は終息してしまったのか、という問いも説明できません。

 日本政府や米軍が裏切った、屋良さんがだらしなかった、という指摘も一面的で、誰が悪いか犯人探しをしても仕方がないと思っています。それ以前に島ぐるみ闘争の後、沖縄社会自体がどの時点で変わってしまったのか、ということに目を向けないといけない。米軍の政策転換による面が大きいのかもしれませんが、島ぐるみ闘争の熱狂はなぜ失われたのか。他人事が他人事ではなくなった、という瞬間があったとするならば、それは擬似的にでもこれから再現していく取り組みが必要ではないでしょうか。

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