ポリコレと沖縄と構造的差別

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●おすすめ三点

■ポリティカル・コレクトネスからどこへ(清水晶子・ハン・トンヒョン・飯野由里子、有斐閣)

ポリコレをめぐる課題や論点を三人の研究者が解説、議論する

■新崎盛暉が説く構造的沖縄差別(新崎盛暉、高文研)

沖縄への差別的仕組みとその歴史的経緯を沖縄現代史家が解説

■沖縄の生活史(石原昌家・岸政彦監修、沖縄タイムス社編、みすず書房)

100人の語り手から100人が聞いた沖縄戦後史の聞き書き集


東大の入学式の式辞で学長が新入生の性別の偏りを念頭に、「構造的差別」に言及したという。「さまざまな構造的差別は自然には解消されないので、私たちがそれを認識し、自省し、アクションを取る必要がある」(4月13日付毎日新聞東京本社版)。この思考をジェンダー問題以外にも広げられないだろうか。

沖縄県の玉城デニー知事がネット上で妻のことを、「山の神」とツイートしたのが「前近代的」と批判されたのは3年ほど前。意味や由来を知らなかった筆者は、これも問題になるのか、と驚いた記憶がある。とはいえ個人的には、「妻」という言葉も今は正直使いづらい。ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)と称される「社会的な望ましさ」の基準は刻々変化している。

何が「不適切」なのかは時代によっても立場によっても局面によっても異なる、というのが日本社会の常識だ。差別はいけないが、何が差別に当たるのかは個人の内面次第。ということになると、社会規範として定着しにくい。だから、「不快な思いをさせたのであれば申し訳ない」と受け手の内面の問題に帰責する「謝罪」スタイルが踏襲される一方、差別の概念はあいまいなまま放置される。「差別に蓋をする」ことで安心を得るのは強者や多数派だ。差別は個人の悪意や思いやりの有無の問題ではなく、それを生み育てる社会的な構造の問題だという「気づき」を共有しない限り、社会の偏りの是正には向かわない。そのことを、『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』を読んで実感した。

本欄では沖縄と本土の意識差を取り上げることが多い。当然ながら沖縄も本土も一括りにはできないし、「分かり合えなさ」を埋めるのに一面的な「正しさの押し付け」が通用しないこともとうに自覚している。それでも看過できないのが「沖縄ヘイト」だ。

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