「沖縄県差別のない社会づくり条例」が昨年3月に沖縄県議会で可決、成立したのもヘイトスピーチ対応を求める機運が高まったからだ。この条例を疑問視する「『ポリコレ』の嵐を防ぐのは」というタイトルのコラムが昨年5月、産経新聞に掲載された。同様の条例は他自治体にもあるが、沖縄の場合、「沖縄県民であることを理由とする不当な差別的言動」も対象に含まれる。これに関し、「インターネット上には口汚い悪口が散見されるが、大多数は米軍基地問題などをめぐる革新勢力の反対活動に向けられており、『沖縄県民であることを理由とする不当な差別的言動』ではない」と論じている。
この解釈が通れば、「口汚い悪口」のほとんどは「政治活動の一環」ということになる。実際、何をもって「沖縄差別」と認定するのかは難題だ。断つべきは差別やヘイトの動力源であり、それは「政治」とのかかわりを抜きに語れない。そもそも沖縄に政治的関心が集まるのは、安保体制の核となる米軍基地の偏在に起因する。このやっかいな政治課題を沖縄に押し付けたのは日米政府であり、その恩恵に与りながら傍観者のように振る舞えるのは私たち、沖縄県外の人間が圧倒的な多数派だからだ。
この仕組みを「構造的沖縄差別」と最初に表現した沖縄現代史家は、沖縄の反基地運動の要求が移設先を明示しない「県内移設反対」から、日本本土も視野に入れた「県外移設」へシフトした2010年前後の転換点をこう捉える。
「それは構造的沖縄差別の上に成り立つ安保体制の現実に対する自覚を、日本『国民』に求めた動きともいえる」(『新崎盛暉が説く構造的沖縄差別』)
こうした沖縄内部の動きを「親中」と錯誤することで都合よく排除し、差別の当事者の立場からも逃れる「甘え」が通用するのは、政治的に圧倒的優位な側の特権ゆえだ。
個の内面の多様さを映す『沖縄の生活史』は沖縄タイムスの連載を書籍化したものだが、記者は取材にかかわっていない。聞き手を公募し、その聞き手にも「できる限り質問しない」で「積極的に受け身になる」制約を課した。沖縄社会に根を張る生活者の「素の語り」の束。中には「マリーン」(米海兵隊)に対する負のイメージを語る同じ口で「革新系」に苦言を呈する人も。安心して話せる聞き手を得た話者の放縦ぶりに比例して、リアルな世相の「取れ高」も膨らんでいく。人権や差別という言葉を前面に出さなくても、社会の一員として生きる意味や生の豊かさが伝わってくる。貫かれているのは、語りの主人公の人生や世界観をまるごと受容し、リスペクトする姿勢だ。
ポリコレに戸惑いや息苦しさを感じたとしても、すべての人に等しく自由と尊厳を担保していくための議論は今後も続くだろう。その延長線上に、政治的な対立軸を越えて差別と向き合わざるを得なくなる日は必ず来る。もちろんこれは「沖縄」に限ったことではない。
【本稿は4月28日付毎日新聞記事を加筆修正しました】