編者が語る~座談会「つながる沖縄近現代史」【上】

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2021年11月に発刊された『つながる沖縄近現代史』(ボーダーインク刊)の共編者、秋山道宏・沖縄国際大学准教授(39)、古波藏契・明治学院大学社会学部付属研究所研究員(31)、前田勇樹・琉球大学附属図書館一般職員(31)の3人に沖縄の近現代史のポイントを解説してもらった。

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【日本ではなかった時代の沖縄~沖縄戦】

―沖縄が日本に組み込まれた経緯について教えてください。

前田 琉球王国という国家が15~19世紀に存在していたことは多くの方がご存知だと思います。沖縄の近代といえば、琉球王国が解体される「琉球処分」から説き起こすのがスタンダードですが、『つながる沖縄近現代史』では、ペリーの琉球来航(1853年5月~54年7月まで計5回来訪)から始めました。日本に開国を求めた、あの米海軍のペリー提督です。なぜペリーなのか。ペリーが琉球にやってきた時代の国際情勢に目を向けてもらいたいからです。ちなみに、1953年にペリーの来琉から100年の祝いを沖縄で盛大に催しています。琉球大学内に護国寺の鐘が保管されていますが、これはペリーが来たときに尚泰王がペリーに贈ったもののレプリカです。

19世紀半ばのアヘン戦争(1840~42年)以降、東アジアの国際情勢は大きく変化します。西洋列強が東アジアに植民地やマーケットを求めて進出する一方、中華帝国(当時は清)が衰退していきます。そんな中、日本は開国し、西洋化を志向する明治政府が誕生します。明確に国境を定めるのが近代国家間の常識になる中、明治政府は日本にも中国にも従属している「琉球」の存在を看過できません。この時期、小笠原諸島を日本の領土として編入する「小笠原回収」(1862年)、ロシアとの間で締結した「樺太・千島交換条約」(1875年)も行われました。これらと連動する形で、琉球を中国から切り離して日本領土化しようという動きが1870年代に進みます。琉球はこれを拒み、様々な抵抗をしますが、最終的には武力を背景に日本に併合されました。この1872~79年の過程が「琉球処分」です。

―「琉球処分」という言葉をめぐって、沖縄では議論の的になってきました。

前田 戦前までは「沖縄は日本の一部」と捉え、「王制からの奴隷解放だ」という見方や、「民族統一事業だった」という論調が主流でした。つまり、日本と沖縄の歴史的な連帯を肯定的に捉える歴史観が一般的だったわけです。それが戦後、とりわけ1972年の日本復帰後は沖縄の個性に目が向けられるようになる中で、日本による併合を「処分」というのはおかしい、併合した側の用語を沖縄で使うべきではない、といった声が高まります。今も「琉球併合」あるいは「廃琉置県」と呼ぶべきだという意見があります。

一方で、基地問題などで沖縄が「日本」から不当な扱いを受けるたび、「琉球処分」になぞらえる捉え方が沖縄で定着しています。最近では、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設をめぐって「県外移設」を公約に掲げていた自民党沖縄県連に対し、自民党本部が翻意を迫り、2013年11月に「辺野古容認」で一致した出来事も「平成の琉球処分」と呼ばれました。石破茂幹事長(当時)の横でうなだれる沖縄選出国会議員5人の姿は「処分」された姿として象徴的でした。

このように「琉球処分」という言葉が、沖縄の歴史の中で繰り返し使われてきた事実に目を向けず、単に用語を変えれば済む、という意見は承服しかねます。日本の沖縄に対する本質的な姿勢を押さえた上で、「琉球処分」という用語と向き合っていくことが大事です。その意味で、琉球処分をその後の140年のスパンで捉える必要があると考えています。

秋山 琉球処分という表現に着目することで、そのときどきの出来事を沖縄側はどう捉えているのか、ということがわかります。そこには、沖縄と日本の関係が投影されていることをしっかり押さえるべきだと思います。

古波藏 用語が背負った歴史を押さえておくのも大事なポイントです。琉球処分を「奴隷解放」や「民族統一」と受けとめるのだって、それなりに意味があった。戦後、米軍統治期だと、首里王府は庶民にとっては支配者であり、首里城だって抑圧の象徴とする見方がありました。そういう封建制を打破したという意味では、条件つきではありますが、琉球処分という用語も「進歩」のニュアンスを含んでいた。だから復帰運動というのは、不完全なままの民族統一を完遂することなんだ、という風に語られていたわけです。というように、「琉球処分」という用語には色んな意味が上書きされてきた面があります。一義的に解釈できる別の用語に変えたりすると、そういう面が見えにくくなるんじゃないかとちょっと心配です。

秋山 話が少し広がりますが、バンドン会議(1955年)前後からの第三世界の動きにおける「民族」という言葉のリアリティも考える必要があります。その流れのなかで、沖縄も1962年に「脱植民地決議」(2・1決議)を出しますが、そこで「民族」や「祖国」が強調される。それを「祖国」と言っているからナショナリズム的だと単純に批判しても見えなくなるものがある時期なんですよね。だから、そういった時代性を考えていく上でも、前田くん、古波藏くんが言っている琉球処分をどう捉えるのかはものすごく重要です。

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