「33個、1人で持てますか?」本土で通じない沖縄の常識と本土の無意識の非常識

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関東圏で生活し8か月が経った。

”基地のそばで暮らすということ”という題材で、宜野湾市民だった日常を伝える活動を行っている。

たくさんの方に、基地があるが故の理不尽で異常な日常を伝える。画面に映し出される、普天間基地上空のオレンジ色の夜空。娘の保育園で、米軍機からの部品落下事故があったことについて。自分の携帯で撮った数多くの動画の中から、低周波を轟かせ爆音をまき散らし、我が物顔で飛び回るオスプレイやヘリが、宜野湾市では違和感なく町中に溶け込む姿。憩いの場だった近所の公園の池で昨年、PFOSが検出された後、その池は立ち入り禁止になり、子ども達の遊ぶ姿をほとんど見なくなったこと。私が過ごしてきた日常は、切っても切れない米軍基地との隣り合わせの生活だと市民目線で語る。その目線の先が、如何に自分たちの穏やかな時間と違うのかを悟った時、場内の空気が変わる。「あぁ…」「うーん…」ため息やざわめき。沖縄県民が暮らす土地は、未だに植民地扱いされているのを改めて認識する人が多い。場内の空気が一気に宜野湾市になる。私はそれを感じ始めてきた。

明さんたちにとって憩いの場だった近所の公園の池は昨年、PFOSが検出された後、立ち入り禁止になり、子どもたちの遊ぶ姿も見られなくなった=沖縄県宜野湾市

米軍基地に対しての常識が本土では通じない

勉強会を重ねて気付いたのが、米軍基地に対しての常識が本土では通じなくて、本土の米軍基地に対する常識が沖縄と違い過ぎることだ。それと同時に本土の無意識の意図しない非常識だ。

違和感も増えた。集会や講演会で会話をしていると、相手の何気ない一言が、沖縄への連帯の意思表示が、本人の沖縄に対する願望とすり替わり、押しつけに感じてしまうときがあるのだ。こうであるべき、なぜこういう判断をしなかったのか?と、状況を意図せず感情を放たれたこともあった。勿論ご本人にはそういうつもりはないだろう。むしろ応援し、真剣に考えた発言でもある。

「沖縄の基地問題は大変だよね。」「基地があるのは沖縄だけでは無いですよ。」

確かに青森県や神奈川県、基地を抱えているのは他の県もある。重々承知している。

米軍専用施設面積の割合は、沖縄が70%、次いで青森県で9.0%、神奈川県が5.6%となる。

沖縄だけが特別だとは思っていないが、規模や被害は桁違いだ。

分かった上で連帯していくことと、矮小化するのとは違うような気がする。

言われるたびに思う。大げさかもしれないが、あなたの安全は、沖縄の犠牲の上にあるのだよと。あなたの期待と希望を、無意識のうちに応援や沖縄へ寄り添う気持ちにすり替え、思い通りの結果にならなかったとき、失望を言葉でぶつけられる。そんなときは、やるせない気持ちになる。悲しくなる。無意識の差別さえ感じる。沖縄では感じ得なかった、卑屈な思いもわき上がる。それが正直な気持ちだ。

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