復帰49年目の父のパスポート

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沖縄から来たなら英語話せるでしょ? 喋って!

沖縄戦で兵士だった父方の祖父は、戦後数年して結核を患い、死の一歩手前までいったそうだ。重病の人は鹿児島県の病院へ搬送され、入院患者の 1 、2 割しか生存しない中、祖父は一命をとりとめた。

父が高校の修学旅行で東京へ行くことになり、その船が鹿児島経由だったので 祖父が主治医の先生と連絡を取り、改めてお礼を兼ね、父はその先生の自宅で一泊過ごすこととなったそうだ。

とても丁重にもてなされたその集まりで、子どもたちが放ったのが冒頭のセリフだ。
沖縄から来たなら英語話せるでしょ?喋って!

父は興味津々で囲まれたそうだ。喋れないよ、日本語を使っているんだと言うと、子どもたちは手のひらを返したようにそっぽを向いたらしい。
沖縄は日本語を使用せず皆英語でしゃべってるんだと思ったのだろう。

翌年、父は愛知県の名城大学薬学部へ進学した。
沖縄から出てきたからそれは虐げられたよ、と口数が少ない父は苦笑いしながら話す。

「アメリカだろ沖縄は」 「英語喋ってみろ」 。 天然パーマな父の髪質はウネウネしていたらしく、体毛も他人と比べると濃ゆく珍しがられたらしい。私が一番印象に残っているのは、父が同級生からパスポートを見せてとせがまれた話だ。

父は1947 年生まれ。日本渡航証明書(今でいうパスポート ) を持っている。
アメリカ占領下の沖縄から県外へ行くにはパスポートが必要だった。
そのパスポートを開くと、名前の所に「琉球住民」と記載された父の名前がある。

訳文はこう記載されている。

本証明書 添付の写真及び説明事項に該当する琉球住民(父の名前)は、
日本へ 旅行するものであることを証明する 。
一九六六年 二月二八日
琉球列島高等弁務官


出入国のスタンプも日本国への帰国・出国を証する、と押印されていた。
これから始まる学生生活への期待や不安でいっぱいのまだ十代の学生が、沖縄から出国しアメリカ統治下であるが故の思い込みで、パスポートや使う言語 、風貌で偏見に遭う。父の心には悲しみや失望、悔しさの傷がついただろうか。

そういう偏見が戦後からもずっとあった事実が、父のパスポートから見て取れた。

それでも今までの生活様式とは違った愛知県での大学生活は、鉄道が走り陸続きでどこへでも行くことができ、沖縄から先に頑張っていた先輩や仲間もいて、とにかく楽しかったと思いを馳せた。負けん気で乗り越え頑張ったのだろうけれど。

パスポートの一番後ろには、両替所でドルから円へ替えた証明のスタンプも押印されている。ドルから円を使うことに違和感は無かったの ? と聞くと、父は「若さで順応出来た」と軽快に笑った。

明さんの父の復帰前のパスポート

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