激動の時代に生きた証
当時の話を同じように母に尋ねると、実家で精肉店を営んでいた母は、お金を日常的に触っていたため、B円通貨からドルになったように、円への交換に不便は感じなかった、とあっけらかんと話した。
沖縄が日本へ復帰してから6年後の1978年7月30日、沖縄は自動車が右側通行から左側通行になった。ナナサンマルだ。類を見ない交通革命だと言われたらしい。
私が生まれた年だ。たった43年前は全てがアメリカ式だったとは想像もつかない。私は二十代のころ仕事でキャンプ瑞慶覧(フォスター)内を運転した時、ルールを理解しようと、しばしばノロノロ運転になったし、旅行先のアメリカでも時速100キロ超えのタクシーが高速道路をぶっ飛ばし、見慣れない左右逆の車窓からの景色にパニックになった。
しかし、両親の記憶では少なくとも混乱することはなく、スムーズだったという。実際には、事故や交通渋滞も多々あったらしいが、そんな事も忘れて笑い飛ばす。それこそが激動の時代に生きた証だと感じた。
とにかく警察官が多く配備され、左右逆になることを心配していたが、「人間やればできるんだな」と母は目をキラキラさせて教えてくれた。
私の両親に言える事だが、日本復帰というめまぐるしく歴史が大きく変わる進行形の時代を、甘酸っぱい青春とともに駆け抜けたのだろう。苦労したという言葉が出てこなかったのは、それが当たり前で、生きることの一部だったからやるしかなかったんだ。
父と母は懐かしそうに頷きながら、思い出話に声をあげて笑った。