みなさんが見上げる空は何色だろう。
その土地の様々な夜空が頭上に広がっているはず。
12月にもなると、さすがの南国沖縄でも日が暮れるのが早い。仕事を終え、娘を学童に迎えにいって帰宅する19時過ぎ、辺りはすっかり真っ暗だ。
玄関前、先に走って遊んでいた娘が夜空を指して言う。
「ママ見て。空がオレンジ色してる!夜だけどなんで?」
夕焼けが残していった跡じゃない。普天間基地上空の部分だ。基地を照らしているオレンジ色のネオンが、そこの部分だけを塗りつぶしている。
娘の問いにハッとした。
私は昨年3月、宜野湾市内で引越しをした。
もともと生まれ育った場所の近くに住み、そして以前よりも普天間基地に近くなった。
小学生の頃、今と全く同じ空を見ていた。
子どもの目には夜空は大きく、闇に光る星がキラキラと光り綺麗だった。
一部分を除いては。そこは今と同じオレンジ色をしていた。
私はじぃちゃんに聞いた。
「なんであんなにオレンジ色してるの?」
「普天間基地があるからだよ。」
覚えている。一緒に庭に出ていた。沖縄戦で兵士として駆り出された祖父は、どんな思いで夜空を見て答えたのか。
まさかそれから30年以上経ち、同じことを娘に質問されるとは。
オレンジ色の夜空を見てじぃちゃんを思い出した。
父方の祖父は沖縄戦で兵士だった。
じぃちゃんは家族皆を戦争で亡くした。子どもの頃、戦争の話をよくしてくれた。
ばぁちゃんとよく一緒に糸満市の平和祈念公園へ行った。
聞き取ることが出来ない、呪文のようなうちなーくぅとば(方言)で慰霊の日に手を合わせていた。
ばぁちゃんは、よく庭で遊んでいた私と姉を台所の小窓から呼び、出来たての熱々スーチカー(豚肉の塩漬け)をよくおやつに食べさせてくれた。
「戦時中、逃げ込んだ民家のカメにスーチカーが入っていて、ばぁちゃんは本当に嬉しかったんだよ。」と話をしてくれた。
スーチカーを食べるとよくこの話を思い出した。そしてオレンジ色の夜空を見て、じぃちゃんを思い出した。
日常の中に亡き祖父母を感じ、戦争が残した基地の弊害を見る。
30年以上経って私が見上げる夜空、―それは緑ヶ丘保育園に米軍機からの部品が落下した事故から3年の空と同じ―は現状何も変わっていない。
飛行禁止区域の上空を我が物顔で飛び回り、騒音は以前に増して酷くなった。
何一つ改善されない。前にも伝えたが、不便で不愉快、危険な基地との隣り合わせ。
そして娘の質問に対する私の回答は、じぃちゃんと同じになった。
娘は言った。「ふーん。明るいね。夜じゃないみたい。」
日々の会話に溶け込む基地との共存。