だから今日も私は「異常な空」を自分が出来るカタチで訴える~米軍機からの部品落下事故から4年

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今日、ぼくは、12.13を考える日には参加しませんでした。

なぜならその時、2年1組で、まどの一番近くにいました。でも、おどろきすぎてたせいか、その時のことは、今は12月13日に、きちのへりの落下物があったことしか覚えていません。

なのでおもいだしたくなかったからです。げんじつから逃げてもむだとは分かっています。次からは参加しようと思います。

これは2019年、当時沖縄県宜野湾市立普天間第二小学校2年生だった友人の子が、同小で行われた12.13を振り返るメモリアルデー集会の内容を書いた感想文だ。2017年12月13日、米海兵隊の大型ヘリコプターCH53Eから窓枠が落下する事故があった。その子はあの落下した運動場にいたのだ。そして友人の下の子は、事故のわずか6日前に同じく米軍機からの部品落下事故があった緑ヶ丘保育園児だった。わずか1週間内に我が子の命が2度危ぶまれるという現実。異常だ。

友人の子は数ヶ月体調を崩した。保健室で過ごしたり早退したり、仕事中に学校から呼び出しもほぼ毎日のようにあった。

どうして?悪いことは何もしていない。ただ学校で当たり前の日常を過ごしていただけ。事故は日常をいとも簡単に奪った。間近で落下物を目撃したら私たち大人でもトラウマになるだろう。子どもの眼にはどう映り、心に傷を負ったのか。ショックは計り知れない。ただただ友人は静かに心身に寄り添い、本人の回復のペースに合わせほぼワンオペ育児、仕事に追われた日々を過ごしていった。みんなそんな日々を送っていたはず。

私ごとではあるが、落下物事故当時ストレスが酷かった。まず寝られなくなり、ご飯が食べられなかった。たった1カ月で体重が5キロ落ちた。空から部品や窓枠、いや機体そのものがまた落下してくるのではないかと思うと、眠りから目覚め、夢か現実か混同するのが怖くて眠れなかった。落下の翌日の12月8日、私は39歳の誕生日だった。朝の登園時に保育園には多くの報道陣が待ち受けていたので取材に応じた。名前と年齢、念のため生年月日を聞かれた時、今日ですと言うと記者の方々が気まずそうになり、変な空気になったのを覚えている。夕方仕事を終え慌てて集まった緊急父母会で、隣に座ったママ友に今日誕生日なんだ、と小声で呟き苦笑いをした。

帰宅して母や姉達が用意してくれていた誕生日のチーズケーキを食べたが、味が一切しなかったのを覚えている。娘がお風呂に入る時、バンザーイと言って脱がし服が頭にひっかかりボサボサの髪をした娘が「空から何が落ちてきたの?」と聞いた。

答えを言うのが怖くて「何だったかな、明日、園長先生に聞いてみようね。」と言ったことも。

あんな強烈な誕生日はきっとこの先無いと思う。眠ることも食べることも出来なくて、娘を外に出すのも怖かった。自宅にずっと居ればいいと思った。でもどうして何も悪い事していないのに、こちらが逃げ隠れしなきゃいけないのか。そう思い声を上げた。だが、結果的に見事叩かれるという現実があった。

誹謗中傷もすさまじかった。自作自演。住んでるから悪い。何で化粧してるわけ。と、個人的にもあった。一番は娘の命が危ぶまれた事が心労だったが、形を変えた敵意むき出しの攻撃にも疲弊した。もちろん倍以上の励ましや賛同、沢山の方の力添えはあった。

とにかく心身は激変した。あの頃は単純に考えていて、声を上げれば市や県、政府に訴えれば、米軍は機体からの部品落下を認め謝罪し、正規ルートを飛ぶだろうと思っていた。

私はあまりにも政治に疎く沖縄がおかれている現状なんて微塵も知らなかった。目の前に見えてる欲しい答えはあるのに、それが得られない。頼みの綱は米側に寄り添う形で追従する。どこを守っているのか、どこの誰に訴えればこの現状が変わるのだろうか。あまりにも大きなものに呑み込まれてうやむやにされる現実が一番怖かった。

どうしたらいいのか、あの日からずっと考えている。

米軍ヘリの窓枠が落下した普天間第二小学校の校庭。普天間基地のフェンスが校庭との境界に設置されている(2011年、渡辺豪撮影)

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