嶋田叡知事は沖縄戦での「恩人」か?(下)

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Ⅴ 日本併合後の沖縄と日本(ヤマト)との関係史

どうして嶋田叡や荒井退造がこういうふうに、沖縄で「命の恩人」だと言われてきたかを理解するには、目先の短い歴史だけではわからない。琉球王国が1879年に武力で強引に日本帝国に併合されて、その後徹底的な日本人化教育が続いてきたことが大きいと思いますね。日本の中で琉球・沖縄人は独自の文化と歴史をもつだけに、そのマイノリティー性がずっと保持されてきて、いつの時代も日本人(ヤマトゥンチュー)への卑下心、コンプレックスが消えない。

沖縄戦後だけでなく、1972年の施政権返還後も同じで、「ヤマトンチューになりたくてなり切れないのが沖縄のこころ」だと言った知事もいたわけです。ヤマトゥンチューへの大きな弱点です。日本人の目がどう自分たちに向けられているか、みずからの行動いかんによっていかなる悪い結果に至るか、そうしたことについて極度に敏感な習性を生み出していることに関係しています。

ですから、この140年の間に、沖縄人は琉球王国時代の人間とは別人種になったのではないかと思うぐらいに変わりました。いわゆる「琉球処分」直後の1880年、(りん)(せい)(こう)は日本と清国の琉球分割案に抗議して北京で自刃しました。他方、それから65年後の1945年、日本が敗戦によって戦艦ミズーリ号上で無条件降伏文書に調印した翌未明、大日本帝国大本営陸軍報道部にいた親泊朝省(ちょうせい)は、子供2人に青酸カリを飲ませ、妻を射殺してみずからも壮絶な自決を遂げました。「皇国」に殉ずるというわけですが、このぐらい琉球・沖縄人が変わってしまったという象徴的な例です。 具体性、実証性がないまま、沖縄で島田叡沖縄県知事を顕彰することは、日本の琉球併合後における琉球・沖縄人のヤマトンチュー・コンプレックス(=日本人化、同化)がいまなお延々と続いている表れではないでしょうか。そして何よりも、近代以降今日までの歴史において、日本が沖縄を重宝したのは、いったい何であったのかという点を見逃さないで、よく考えてほしい。

「島守」の塔とは、私からすればじつに言い得て妙、じつに皮肉な命名です。沖縄の人間とその住民の生活を守るのではなく、沖縄の陣地、土地、領土というモノを守るという意味の「島守」ではないか、と思ったりするわけです。軍事上だけでなく、戦時下の行政と政治も、そういう植民地的観点を第一にして行われたといっても仕方がないようにみえるのです。

 ともあれ、ほかの都道府県と違って、沖縄の人間は1945年の「敗戦」や1972年の「復帰」といった短い歴史スパンではなく、もっと長い歴史に立って、つまりですね、日本の枠をこえた時空のなかで、頭をクリアーにして、ロジカルに考える力が必要ではないかとつよく思います。

 駆け足の話になりましたけど、これで終わります。ありがとうございました。

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