嶋田叡知事は沖縄戦での「恩人」か?(上)

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講演録 沖縄戦時の知事・島田叡と戦争責任

この10年ばかり、沖縄戦で没した戦前最後の官選沖縄県知事・嶋田(あきら)が、書籍や映画でさかんに取り上げられるなど注目を集めている。だが、嶋田知事は本当に戦時下の沖縄住民にとって命の「恩人」だったのか。これまでの沖縄戦研究をふまえて、その実像と歴史的評価について、沖縄近現代史家の伊佐眞一氏が語った。


昨今、沖縄では沖縄戦当時県知事だった嶋田(あきら)と、警察部長だった荒井退造を顕彰する動きが盛んになっています。これがどうして問題なのかということを具体的に分かりやすくお話ししたいと思います。こういう話は何といっても論理的で具体的、そして実証的であることが大切です。

辻褄があわないとか、話が大まかすぎるとか、あるいは空想や思い込みではいけません。「沖縄戦でいいことをした」という場合、さて、どこがどうだったのか。実際にどういったことが起きたのかということを、できるだけ筋道をたてて説得力があるように説明したいと思います。

 嶋田叡と荒井退造の記念碑は「島守の塔」として1951年に建てられました。沖縄戦が終わって何年もたたない生活物資にも困るような慌ただしい時期にあんなに大きな顕彰碑を、お金も労力もかけてやっています。相当強い意思を持ってやったということがわかります。それをリードしたのは、沖縄県で嶋田知事、荒井部長の部下だった生き残りの人たちでした。顕彰碑には、沖縄戦で亡くなった県庁職員の名前がずらりと並んでいます。

Ⅰ 嶋田叡が「恩人」「島守」といわれる理由  疎開・食糧・沖縄での死

嶋田叡や荒井退造が、「恩人」「島守」といわれる理由は、大きく3つあると思います。1つは「沖縄の住民を安全な場所に疎開させた」ということ。人数は10万人と言うのもおれば、20万人と言うひともいますが、まちまちで大雑把です。疎開先は九州の熊本や宮崎、大分などで、そして台湾。沖縄島の中では中南部からヤンバルへの疎開がありました。この疎開で多くの人を助けたというので、任務の第一線に立った警察部長の荒井は「沖縄疎開の恩人」とも呼ばれています。

しかし疎開については、すでに沖縄戦が始まる前年の1944年7月に、日本政府が閣議で疎開をさせるということを決めて沖縄県に通知しています。疎開をさせることを発案したのは日本の戦争を指揮していた大本営陸軍部でした。このことをまず頭に入れておいてほしいと思います。つまり、沖縄県知事や警察部長が独自に計画し決定し、そして実施したのではなく、戦争指導部の指令を忠実に実行したのです。

 2つ目が食糧についてです。沖縄戦が目前に迫る中で、台湾から米を持ってきて沖縄住民を飢えから救ったというわけです。「結局米は届かなかった」ともいわれてきましたが、積み下ろしの作業に当たった人たちの証言によると、45年3月の慶良間諸島への米軍上陸の約1か月前に那覇港に、そして3月下旬には名護に届いていたようです。

嶋田知事は同年1月下旬に沖縄に赴任し、2月下旬に蓬莱米をぜひ沖縄に譲ってほしいと台湾へ交渉に行きました。それは第32軍の軍用機で行ったのでした。往復の行き来などを世話したのは軍です。現在のJALやANAのように民間機で行ったわけではありません。こうした渡航が可能になった事情を知らないと大変です。

制空権がありますから軍が十分配慮した便宜供与なしに台湾へ行ったりはできません。沖縄で持久戦を準備する軍にとっても一番欲しかったのが食糧だったからこそ、軍用機に乗っていくことを許可したんですね。米が那覇港に着いたとき、牛島満第32軍司令官と海軍の大田実司令官がわざわざ巡視に来たのがいい証拠です。

この米によって沖縄の住民を飢えから救ったといわれますが、では、この米が住民の餓えをしのぐのに大きな役割をもって配給されたという証拠があるんでしょうか。オリオンビールの創業者として知られる具志堅宗精さんは、その当時、那覇警察署長でしたが、艦砲下の3月下旬、台湾米が山積みになった武徳殿から繁多川の県庁・警察部壕に米を運ばせています。副署長だった山川泰邦さんが著書の『秘録沖縄戦記』にポロっと書いているのがヒントになる。ですから、この台湾米のほとんどは配給には至らず、その大方は軍と県が使ったと私は推測しています。

 3つ目は、前任の(いずみ)(しゅ)()知事との比較ということがあると思います。泉知事は「仕事ができなかった」「十・十空襲のときには中部に逃げた」「沖縄戦で死ぬのがこわいと東京出張に行って、そのままほかの県に異動になった」ということで、「逃げた知事」といわれてきました。嶋田さんはこの泉知事とは対照的に、毅然と死を覚悟して沖縄に乗り込んできて、粉骨砕身、沖縄のために一身を捧げた立派な知事というわけです。

 泉さんは「逃げた」と一部では言われているけれども、ここでよく考えてほしい点は、日本の統治機構のなかで、官庁の中の官庁と言われていた内務省のことです。これは明治の初期、大久保利通の頃からですが、内務省の官僚は自分たちが日本をリードしているというエリート意識が非常に強かった。

ですから、まがりなりにも噂や風説ならともかく、実際に逃げたような行動があったと認められる者を他県の知事に、勅任官として転任させることは決してありません。泉さんは1944年12月、東京に正規の出張をして予算折衝等の仕事をしており、かりにその機会を利用して他県への転任活動をしたとしても、それが「職務放棄」とか「敵前逃亡」でないかぎり問題はなかったでしょう。

意気地がなかったとかの風評はあったにしても、特別問題にもならなかったので、翌年1月に香川県転任となったのです。逃げたという「事実」がはっきりすれば、文官懲戒令の対象になります。内務省が転任を発令したということはそういうことです。この点をきちんと押さえておいてほしいと思います。

なお、泉知事は、沖縄県の意見や要望が第32軍によって軽視されているということで、沖縄の政治大権をもつ知事として大いに不満をもち、ときには抵抗もしていたようで、軍にとっては思うようにならない非常にやっかいな知事であったことは確かです。泉さん個人にも多少は問題があったでしょうが、私にいわせれば、それは好悪の範疇に入るものが多かったという気がしますね。

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