Ⅲ 沖縄戦における行動(1945年4~6月)
【1】第32軍の本務・目的→対米軍
第32軍だけではなくて、日本帝国陸軍の中に日本国民の生命と財産保護を重要目的にしたプランはありません。軍隊は、日本国民を保護するためではなく、戦争をするため、敵を殲滅して勝利することにあります。
たぶん今の自衛隊もそうじゃないでしょうか。この数年、中国が攻めてくるからというので、南西諸島にこれまでの米軍に加えて、さらに自衛隊までが他府県に比べて恐ろしい密度で配備されてきていますが、敵が上陸した場合に住民をどうするかという保護計画は何も立てられていません。当たり前です。それは本来の仕事じゃない、本務じゃないんですから。
先の大戦中、避難や疎開で混雑している往来で、邪魔な民間人など轢き殺してゆけと軍人に命令していた軍隊をみてショックを受けたと司馬遼太郎が書いていますが、軍隊は国民を護るものとの誤った先入観、思い込みが広くあった証拠です。第32軍のアタマにあったのは、いかにアメリカ軍を打ち破るかであって、その目的にそったかぎりにおいてしか、住民を見なかったと言っていいでしょう。
【2】嶋田県政の仕事と職員→対住民
嶋田さんが知事に赴任してから、沖縄県の仕事がどうなったかということを説明します。当時、沖縄県庁の部署は、変遷はありますが、大きくいうと内政部と経済部、警察部の3つありました。そして戦争が近づいてくると、内政部と経済部は新しくできた人口課と食糧配給課に集約されていきます。警察部には防災課や刑事課などいろいろな課がありましたが、45年2月になると全て統合されて警察警備隊になりました。そして45年5月には内政部と経済部が統合されて後方指導挺身隊になります。
警察部にはおおよそ500名、内政部・経済部は500~600名。総勢1000名以上はいました。嶋田知事が沖縄に来て県庁の仕事をこの2つに集中化させたこと、これほど彼の仕事をはっきりと教えるものはありません。
そして、日米の地上戦が始まると県庁舎には当然おれないので、首里の司令部壕や那覇の繁多川や識名あたりの壕を転々とします。米軍が押し寄せる4月下旬、艦砲が飛び交うなかを島尻の市町村長を集めて、その壕で会議をします。
そのときの指示は、住民保護についても言及していますが、「残忍な敵は我々を皆殺しするものと思ふ。敵を見たら必ずうち殺すというところまで敵愾心をたかめること」のほか、「村に敵が侵入した場合一人残らず戦えるやう竹ヤリや鎌などを準備してその訓練を行って自衛抵抗に抜かりのない構えをとらう」とか、「軍事を語るな、スパイの発見逮捕に注意しよう」などでした。
また嶋田知事の訓示としては、「暴虐な米獣」に対して「本当の意味での敵愾心を燃やし米兵と顔を合はす時がきたら必ず打殺さう」と、沖縄の戦える人間は最後の一兵まで戦えと叱咤激励をしているんですね。
以上のことを要約すると、「戦意高揚」「夜間の食糧増産」「住民の保護・避難誘導」を行政のトップとして市町村長に命じている。しかしですよ、あんな「鉄の暴風」といわれる艦砲が飛び交う状況下で、いくら戦闘が弱くなった夜とはいえ農作業ができるわけはありません。
そして「戦意高揚」とは、先の知事の訓示もそうですが、「敵に投降することを許さない」「どんなものを武器にしても徹底的に闘え」「敵に情報が筒抜けにならぬよう諜報活動に注意せよ」「軍と県、新聞の言うこと以外はすべて嘘である」を意味していました。これは嶋田が内務省で身につけた職務であって、沖縄県警察部の中心をなす仕事でもあったのです。これらの内容は砲弾下で発行していた『沖縄新報』が証拠として伝えています。
証言記録の批判的検討
沖縄県警察部の職員が、職務として住民を安全な場所に避難誘導するために駆けずり回っていたというのが事実であれば、命を助けてもらったことに関係するのですから証言も多いはずですが、どうなんでしょう。『戦さ世の県庁』は、荒井退造の長男、荒井紀雄さんが書いたものですが、その中に沖縄県警察部の職員で戦死した人たちのことが克明に記録されています。いつ、どこで亡くなったかということが書かれているのはいいとして、その人たちの職務についてどう書いているかというと、全部が全部見事なまでに同じで、「住民の避難誘導」となっています。
このことと、住民の沖縄戦体験記などから読み取れることは、警察警備隊は後方指導挺身隊と連携しながら、沖縄の防衛隊や義勇隊などを使って「食糧の増産」のほかに、壕に避難していた住民を駆り出して、通信連絡や弾薬運搬、そして敵や味方の情報収集、場合によっては斬り込みにまで指導していたのではないかということです。実際にそうした証言があります。
他方、学徒隊の編成については法令上の年齢制限がちゃんとあったにもかかわらず、なかには本人や保護者の承諾を得なかったり、あるいは実質的な強制をしいていたことがあって、そうして作成した名簿を沖縄県が第32軍に提出していたわけです。そういった住民の戦力化を促進する仕事があったはずですが、県庁職員だった人たちの体験記にはそれがすっぽりと抜け落ちている。「避難誘導」の言葉は、すさまじい戦闘の渦中にあっては実態に合わないし、具体的な記述でもなく、実証的でもありません。現実に行われたことの説明になっていないのです。
さきほど、「島守の塔」を戦後まもなく建設したのは、生き残った県庁職員だったと言いましたが、具体的にはこの警察警備隊と後方指導挺身隊だったことを忘れないで下さい。そして、この人たちによって嶋田知事と荒井警察部長が「恩人」として伝えられてきたことに注意する必要がある。
しかもこれらの証言録はすべて戦後、デモクラシーの世の中になってから思い出して書いたもので、戦中のなかで書かれたものではありません。この人たちは「鉄の暴風」下でいったいどんな仕事を具体的にしていたのかと私は思うわけで、都合の悪いことが書かれていない。「あっちの壕で何をし、こっちの壕で誰と会い、誰それがどうやって死んだ」ということのオンパレードです。住民を死へと駆り立てていったような職務については、頬かむりしていたのではないか。「どこそこで住民を防衛召集して弾薬運びとか食糧増産のために使った」とか、「斬り込みをさせた」などということはじつに例外的に少ないんですよ。
知事と警察部長の命令を忠実に守って実行にうつしたはずですけど、見事なほどに何も語っていない。沖縄県の当事者の回顧録は注意して読む必要があります。
【3】軍部と政府にとっての沖縄住民→軍・官への奉公=根こそぎ動員(戦力化)
こうしてみると、牛島満第32軍司令官をトップとする「軍」の仕事と、嶋田叡沖縄県知事をトップとする「官」の仕事は、歩調を揃えて沖縄戦時下の住民を指導・指揮したことがはっきりする。泉知事のあと、すぐ嶋田に決まったわけではなく、中野好夫によると2、3人断られたあと、ならば嶋田はどうかとサジェッションをしたのが第32軍の牛島だったらしいのです。彼らはそれ以前に中国戦線で知り合っており、互いの仕事をよく熟知していたことが大きく影響した。
沖縄県政の最大かつ唯一の目的は、眼前の戦争をいかに最大限の力を集約して戦うか、以外にはありえませんでした。住民を一手に統治する沖縄県の指導者として、疎開も食糧増産も、そして米軍との戦闘に際し、知事の住民を見る目は、役にたつか、たたぬかが第一の基準だったことはいうまでもありません。老人や幼児、病者などは穀潰しで、かつ戦闘行動の邪魔になる。これが知事、警察部長の使命だったはずです。まさに、「軍・官・民の一体化」であり、沖縄の戦場では「共死共生」が求められたのでした。
【下へ続く】
*本講演は、連続講座:日本「復帰」50年を問う 第8回「沖縄戦時の知事・島田叡と戦争責任」(2021年12月4日、@レキオスクールスペース、主催;命どぅ宝! 琉球の自己決定権の会)での講演を『Lew Chew 琉球』編集部がテープ起こししたものに、伊佐眞一氏が加筆・修正したものです。
【本文は、『Lew Chew 琉球』(No. 86、2022年1月10日発行)からの転載】