初代最高裁裁判官になれなかった大浜信泉②南島の夜明け 迷信と科学

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国境の島・八重山に生きる覚悟

 測候所ができた頃は、それ以前の観測記録がないので、予報は信頼性に欠けた。悪天予報が外れた時には、出漁を取りやめた漁師が測候所に詰めかけ、石を投げて窓ガラスを割った。土地に伝わる言い伝えや諺、長年の勘のほうを信じてサバニ(くり舟)を出し、嵐に遭って命を失う者もあり、ときには夫を失った妻らが測候所に集まって泣きわめいた。旧慣と文明。迷信と科学。毒蛇ハブや猖獗のマラリアで死ぬ者も多く、台風や渇水にも見舞われる島チャビ(離島苦)に呻吟しただろう。強制的に「日本」となっていく時勢、新たな支配者への反発もあった。岩崎の次女・菊池南海子によると「初代の測候所長は原因不明の悶死をとげた」(『父・岩崎卓爾』)という。

 測候所新設の翌年、卓爾は石垣配属となり、着任三カ月後に29歳の若さで二代目所長を拝命した。旧制二高(現・東北大)中退後、気象研修員となった変わり種で、自ら転勤を希望している。故郷仙台から妻をもらい、測候所隣りの官舎で新婚生活を始めたが、暴徒が押しかけると、結婚してまもない妻は押入れの中で身を縮めた。当時でいえば異国暮らし、島流しのような勤務先であり、七人の子を地元の学校に通わせていたのは、かなり特異ではある。

 まず迷信を追い払い、科学的知識を伝えようと、古老らから天候に関する口伝や俚諺を聞き集めた。住民を集め、その一つ一つを気象学に照らし合わせて説明し、どれが正しくて誤っているかを皆で話し合った。伝承には亜熱帯特有の生き物や植物がたくさん出てくるが、知らないものばかりなので、池や穴を掘ってカエルやヘビを飼い、数年がかりで観察を重ねていった。幼いころから好奇心旺盛で知られていた大浜信泉も、目を輝かせてその輪に加わっただろう。

 東京からの職員派遣を断って地元青年を雇い、気象学だけでなく英語や数学、国語も自ら教え育てた。すべからく科学は人間の眼前にある自然現象や物質を観察し、仮説と実験によって発達してきた。自らの周囲で見聞きする出来事を検証することで、科学的な思考を育んだ卓爾。IT機器にあふれた現代と比べて、はるかに自然と教育がダイレクトに結びついていた。

 有名な「雨乞い事件」がある。二カ月近く深刻な旱魃に見舞われ、飲み水にもこと欠き、島の作物も赤枯れた。祭祀を司るノロを先頭に、円陣を組んで雨乞いを一心不乱に続ける島人たち。南島に日照りは珍しくなく、その儀式も数百年変わらぬことだろう。ふと卓爾が、この空模様では雨は降らない、雨乞いをやっても無駄だ、とつぶやいた。怒りだす島人。「これは天文屋が悪いのだ。天文屋のせいだ。天文屋を制裁しろ、というので、ノロ(巫子)が先に立ち、父を縛って拉致してしまったことがある。その頃はまだまだノロは強い力を持っていた。私達は青くなって心配したが、父はこんな時、一切手出しを禁じて一応されるままになるのが、彼等を懐柔する方法だと言っていた(中略)この時も何時間かして帰って来てけろっとして、たった一言『一体いつになったら(科学を)わかってくれるのか』と言ったきりだった」(『孤島の父・岩崎卓爾』)

 ここで見切りをつけて島を去りそうだが、卓爾は違った。神をも脅迫するように激しく祈り続ける姿を見て、科学を知っていようといまいと、その正誤がどうであろうと、そうせずにいられない切迫した願望にやがて思い至る。この時、今まで自分と島の人たちとの間にあった見えない垣根に初めて気がついた。その垣根を取り払わない限り、これから島に住み続けることができるわけがない。自分も島人の一人であるという意識をはっきりともち始めた。そして雨乞いの行事や祭りがあると、自らそれに加わって歌い、踊り始めた(谷真介『台風の島に生きる―石垣島の先覚者・岩崎卓爾の生涯』)。斎木喜美子はこの転換についてこう論述する。「科学者であるがゆえにおそらく研究対象として島を見ていたであろう岩崎が、生活者として島の人々に寄り添い島の教師たちと連帯していくうちに、彼の活動は教育実践的性格を強めていった」

 卓爾に可愛がられていた作家の伊波南哲は振り返る。「元旦の小学校での拝賀式を始めとして、卒業式、運動会、童話大会などには来賓として必ず顔を見せた。不幸があると見舞って激励し、どの葬式にも欠かさず出た。村祭りや年中行事にも参加し、特に夏の陸の祭典豊年祭には、芭蕉布の着物に縄帯姿で、蒲葵扇を持って当登野城部落の旗頭のあとから、村の人々と一緒になって新川の祭りの広場まで歩いていくのであった(中略)岩崎所長は来賓席におさまることを極端に嫌い、青年たちと一緒に気勢をあげて胴揚げをされたりしていた」(『八重山文化と岩崎卓爾‐若き日の回想』)。

閉ざされた世界 外界への窓口

 ところで、木に縛られた卓爾を、地域の子供たちはどう見ていただろうか。古くからの信仰や物語の世界に生きる大人たちと、新しい時代を象徴する外来者。その間に挟まり、複雑な心境だったに違いない。大浜の人物評として「近代的合理主義に立った典型的なプラグマチストと私学育ちの浪花節的人情家との共存」(『沖縄大百科事典』)との一文があるが、そこに合理的な思考力を持ち住民に寄り添う卓爾の姿が重なるといえば大げさだろうか。

 一方の卓爾は、小島に生まれ、身内の中で因習や掟に縛られて老い、そのまま一生を終えるだろう児童らの行く末を憂いていた。島人の啓蒙には、まず子どもたちからと、小学校に出向いてよく講演した。本土の蒸気機関車、東京から送られてくる新聞や雑誌に載っている外国の話、新しい出来事についても話し、島の子どもたちの目を広く世界に向けさせようと努めた。本土出張の折には、島の子どもたちに本やお菓子をお土産に持って帰り、ヤマトではこんなものを食べていると分け与えて味わうことを勧めた。

 次女・南海子は「私共のためにも、博文館から出ていた巌谷小波のお伽噺や、カルタ、双六、百人一首などが、神戸からの便船で、測候所の器材や一家の米味噌、日用品雑貨にまじって届きます。お伽噺の本は読後小学校へ寄贈されますので、私共は争って読みました(中略)来客が多種多様なためか、父の雑学ぶりが私共にも伝わって、私の読書振りは今でも多読を通りこして雑読、乱読、淫読だと夫に笑われるのも親ゆづりなのでしょう」という。

 医療事情を憂えて島外から免状のある産婆を連れてきたり、島の青年を九州の医学校に出てやったりした。就職、結婚を世話した学生の数もおびただしい。次第に信頼を得て親しまれていった卓爾(注)。1926年に測候所が改築された際、その八重山初のコンクリート建築物は「白亜の殿堂」と仰ぎ見られ、盛大な祝賀会が催されたが、その竣工祝いに、三線の師匠だった大浜信泉の父・信烈が自ら手掛けた曲「松兼ゆんた(古謡)」を贈っている。

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