初代最高裁裁判官になれなかった大浜信泉②南島の夜明け 迷信と科学

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「辺境の防人」を育てる使命感

 子供の頃から読書欲が極めて旺盛だったことで知られる信泉。だが大人たちは八重山の言葉を母語としており、「標準語」励行が強引に進められていた時代だ。「当時島では読むべき本が少なく、親戚、友人等各方面から借出して、むさぼるように繰返し精読した。東京の書店に本を注文しても、到着がおそいので何回も郵便局に通い、まだか、まだかと郵便局に催促したというエピソードがある。彼の精読欲はこのころに養われたものであった」(『大濱信泉』)。船が到着したのを知って港へ駆けて行く信泉の姿を見た、という話も残る。本にあふれた測候所に足しげく通っただろうことは想像に難くない。

 ナポレオンの伝記本は心をとらえた。地中海の離島コルシカ島に生まれ、フランス皇帝となって欧州を席巻した英雄を自らの境遇に重ねた。ナポレオンの言葉「まずこの一戦に勝て」にひどく心を打たれ、「何事にもよらず人生は、まず当面のことに最善を尽くして一歩一歩積み重ねていくべきだ」ということを終生信条とした。ナポレオンを引き合いに出しては「人の価値は生まれた場所によって決まるものではない。いかに努力し自分を磨くかによって決まるものである」と説いた。

 日露戦争で八重山沖から北上したバルチック艦隊を日本海軍が壊滅、世の中が勝利に沸く中、『日本少年』という愛国的な雑誌を愛読していた信泉は、軍歌という軍歌はすべて暗唱していて全校中で評判だった(『大濱信泉』)。それまで「日本人」となったばかりの沖縄人は忠君愛国の精神が足りないと批判が強く、本格的に戦地派遣されたのは日露戦争からだ。八重山からも含めて2000人近く出征(約200人戦死)、官民挙げて戦意高揚に熱をあげ、慰霊や顕彰の行事が県下で盛大に執り行われた。卓爾は日曜日ごとにカメラを持って出征軍人の家を訪ね、撮った家族写真を慰問袋に入れて戦地に送っていた。信泉のような聡明で時流に敏感な少年がいち早く軍国色に染まったのも、ある意味自然のことだった。

 ちなみに信泉の元の名は「信陪(しんばい)」だったが、上京を機に、子どものころ心酔していた作家にちなんで改名している。軍記もの、冒険ものの流行作家だった退役陸軍中将の堀内信泉にあやかったのだ。幼少期の読書歴がいかにその後の人生に大きく影響するかがよく分かる。卓爾の存在が大浜の資質を開花させたのか、それとも大浜生来の好奇心がそれら書物によってさらに磨かれたのかはわからない。ただ当時の沖縄においては、かなり恵まれた知的環境だったことは間違いない。

 ところで、なぜ卓爾は生涯そこまで八重山にこだわったのか。民俗学者の谷川健一は『岩崎卓爾と八重山』にこう記す。「岩崎卓爾は前線から後退を命じられるのを、もっともおそれる兵士の心情をもって一生をつらぬいた人間である。彼にとって前線とは八重山であった(中略)彼には明治の草創期に科学を研修した人間の科学に対する肯定と信頼がある。岩崎卓爾は何よりもまず明治の科学者である。しかも彼をして、八重山にふみとどまらせたものは、明治人のもつ素朴なナショナリズム(国民主義)であったと私はおもう。辺境の防人としての気概がとうぜん彼にもあったはずである。この国民主義は国家主義と載然と一線を画するものではない。しかし、微妙にくいちがっている。ではどこがちがうのか。国家主義は一種の観念の産物である。しかし、国民主義は観念にくもらされないリアルな眼をもって対象にむかう。岩崎卓爾が八重山の測候所に赴任した当時は、日露戦争のまえで、国民のあいだにはまだ素朴なリアリズムの姿勢は失なわれてはいなかった」

 新しく日本の版図に入った辺境の地・八重山で、防人としての「立派な日本人」を育てあげるという使命感が漂う。

(注)石垣島地方気象台HPの岩崎卓爾コーナー(https://www.data.jma.go.jp/ishigaki/guide/takuzi/takuzi.html)は往時の写真を使い説明文もわかりやすい。動画では卓爾を称えた八重山工工四(古謡)「岩崎節」を聞くことができ、いかに島民から尊敬されていたかが伝わってくる

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