和魂(にぎたま)となりてしづもるおくつきのみ床の上をわたる潮風
糸満市米須地区に建つ慰霊塔「魂魄(こんぱく)の塔」に刻まれた短歌である。戦後間もない1946年、戦争で犠牲となった遺骨を住民が自発的に収集し、魂魄の塔を建立した。歌の作者は、歌人の翁長助静(おながじょせい)(1907年~1983年)である。「にぎたま」は穏やかな神霊、「おくつき」は墓の意。戦争で亡くなった人々が穏やかに眠る地。そこに優しく吹く潮風。端正な詠みぶりの気品ある鎮魂歌だ。
翁長助静には『黎明』という歌集があるそうだが、残念ながら私は見たことがない。わずかに『沖縄文学全集 第3巻 短歌』(国書刊行会、1996年)で助静の歌の一部を目にできたのみだが、それでも印象的な作が少なくない。いくつか紹介しよう(以下の歌は『沖縄文学全集』より引用)。
急降下又急降下あわれあわれ焼かれとばされ街亡びゆく
1944年10月10日の「十・十空襲」を詠んだ歌として知られる。空襲当時に詠まれた歌か、後になって当時を思い出して詠んだ歌か、私には分からないが、いずれにしても一読して心に残る。三句目の「あわれあわれ」が六音、つまり字余りになっている。このことで歌のリズムが乱れ、困惑する作者の気持ちが強調される。下句は対照的にリズムが良く、この軽快さによって、簡単に破壊されてゆく街の無残さが伝わる。源実朝の和歌「大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けてさけて散るかも」を思い出させるような迫力がある。
十月十日壊滅の音も聞き分けむ四町大綱(ゆまちおおづな)のどよめきの中
「四町大綱」は那覇大綱挽(おおつなひき)のこと。琉球王国時代から那覇で行われていた行事で、戦前には途絶えていたが、1971年に復活して現在に至っている。復活するにあたり、那覇大綱挽の実施日は10月10日とされた。十・十空襲の記憶と那覇の復興を語り継ぎ、犠牲者への追悼と平和への思いを捧げるためという(なお、2000年からは体育の日が第二月曜日となったのにあわせて、日程も変動している)。綱を引く人々や観客の盛り上がりの中、耳をすまし、空襲のことを思い出す作者。作者の耳には、人々の賑やかな声が逃げ惑う悲鳴にかわり、「焼かれとばされ」亡びゆく街の音が甦ったのではなかろうか。この歌は1975年の作という。戦争が遠い過去となっている今、那覇大綱挽から空襲を連想することも少なくなっているかもしれない。今だからこそ、この歌も先に挙げた「急降下」の歌も大切に味わいたいと思う。
がじゆまるの肌にふれつつ目をつぶりおとめごころに還りしか妻も
下駄ぬぎて芝生に立てば足うらに草のいのちもほのぼのと萌ゆ
このような歌も助静作品の魅力である。がじゅまるとそれを慈しむ妻、そのふたつの瑞々しい生命力が感じられる歌。妻に向けられた視線が温かく、歌の中に穏やかな時間が流れている。「下駄ぬぎて」の歌は、足裏で草の命を感じ取る繊細さがすごい。このような感性は自然を愛でる想いの深さから来るのであろう。
いにしへも吹きし和やかな風なれど今爆音に引き裂かれつつ
今吹いている風も、はるか昔に吹いていた風も、風自体はかわらない。しかし、大きな違いがある。戦後、沖縄には「爆音」があふれている。米軍機の起こす音が島を震わせ、米軍機の飛行が島の空を狂わせる。
歌人・翁長助静は、戦後沖縄の激動の時代を政治家としても活躍した。助静は今の沖縄を、「爆音に引き裂かれ」たままの沖縄をどう見るのだろう。
助静の死後、その三男は政治家としての歩みを始めた。市議会議員、県議会議員、那覇市長を経て沖縄県知事となった翁長雄志氏である。県民のために尽力してきた翁長雄志氏の逝去が残念でならない。その逝去を悼むとともに、翁長助静の歌を読み返し、平和の尊さをあらためて感じている。