『屋良朝苗日誌』に見る皇太子明仁の沖縄初訪問【上】

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「歴史的の一日は終る」

屋良朝苗は米軍占領下の沖縄で復帰運動の中核を担った沖縄教職員会の会長であり、1968年からは琉球政府行政主席(県知事に相当)も務めた。沖縄返還にあたってはその実現に尽力し、日本政府へ沖縄側の要望を伝え続けた。戦後沖縄を代表する政治家の一人である。

また、屋良は革新政党の支援を受けていたが、天皇制へ反対することはなく、むしろその思慕は強かったと思われる。1972年5月18日、沖縄返還から3日後に開催された園遊会に参加したときの感慨を屋良は以下の様に記している。

私の前に来られた天皇は沖縄の復帰を喜ばしく思う、良かったですねと話しかけられた。私は用意してあった言葉を一気に申し上げた。「二七年振りに復帰した沖縄県知事屋良朝苗であります。陛下には長い間、常に沖縄復帰を御気に止めていただいて有がとうございました。御かげ様で去る五月十五日念願の復帰は実現しました。私一生の感激でございます。つきましては今後は新生沖縄づくりに全県民心を合わせて最善の努力をいたします」と申し上げた。

陛下は今後平和な幸せな沖縄をつくりあげていって下さいと云って居られた。皇后陛下もにこっと会釈。天皇も笑顔で応待して居られた。続いて皇太子も復帰を喜ばれて御声があった。これから又むつかしい問題もあろうが頑張ってもらいたいと云う意味の話があった。私も御関心に御礼をのべ少年会館の事も一言ふれておいた。美智子殿下はしみじみと長い間ご苦労様でした、大変だったでしょうと心からねぎらいの御言葉が私にも家内にものべて居られた。何となく強くだき取る庶民の言葉が感じられた

(屋良日誌30) *日誌番号は沖縄県公文書館による。なお引用にあたっては読みやすさを考慮し適宜句点を補い、かな混じりは直し、明らかな誤字脱字は修正した。引用者注は〔 〕で示した。

屋良の筆致からは沖縄の日本復帰を天皇に報告する際の興奮がありありと読み取れる。この日の日記は「歴史的の一日は終る」と結ばれた。

沖縄県知事となった屋良は三大復帰記念事業(全国植樹祭・特別国民体育大会・沖縄海洋博覧会)の実現に取り掛かる。しかし、この際に問題となったのが昭和天皇の臨席であった。屋良は1972年11月28に開催される植樹祭について、天皇の臨席を要請するのが慣例であるとして、10月24日にその意向を表明した。しかし屋良の支持母体である革新系団体は一斉に反発した。この県内世論を受け、屋良は天皇への奏請を断念することとなった(屋良朝苗『激動八年 屋良朝苗回想録』沖縄タイムス社、1985年、206-207頁、以下『激動八年』と略記)。

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