火炎瓶と「だんじゅかりゆし」
5月1日、新天皇が即位し令和の時代が始まった。 退位した前天皇明仁は上皇となった。上皇明仁が沖縄に強く関心を寄せていたことはよく知られている。沖縄への訪問は11回を数える(皇太子として5回、天皇として6回)。
2018年12月、天皇として最後の誕生日に際して「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と沖縄に寄り添う姿勢を改めて示した(宮内庁HPより)。
2019年2月の在位30年記念式典では、沖縄県出身の歌手、三浦大知が「歌声の響」を歌い上げた。この歌は上皇が詠んだ琉歌(沖縄の短歌。八・八・八・六からなる)に上皇后が作曲したものである。この琉歌は上皇明仁にとって初めての沖縄訪問の経験が基になっている。
1975年7月18日、名護市にある国立のハンセン病療養施設「沖縄愛楽園」を皇太子夫妻(当時)は訪れた。そこで納骨堂に供花し、在園者との交流が持たれた。そして帰路につく時、見送りとして在園者らは船出歌「だんじゅかりゆし」を合唱した。これに感銘を受けた皇太子は帰京後、その思いを琉歌に込めたという(『沖縄タイムス』2019年2月25日)。
その前日、皇太子夫妻はひめゆりの塔を慰霊のために訪れていた。そこでは夫妻に向って火炎瓶が投げられるという事件が発生していた。実行犯の一人、知念功は皇太子等を殺傷するテロ行為が目的ではなかったとした上で、その動機を天皇制と昭和天皇の戦争責任、そして1972年の沖縄返還が米軍基地撤去ではなく、むしろ軍事化が進められることへの抗議であったと説明している(知念功『ひめゆりの怨念火』インパクト出版会、1995年、10-11頁)。
火炎瓶とだんじゅかりゆし、皇太子にとっての沖縄初訪問が痛烈な経験であったことは想像に難くない。その思いについて、公式に発表される「お言葉」以外から知ることは難しい。そこで本稿では当時の沖縄県知事である屋良朝苗の日誌と回顧録から、その時の様子を掘り起こしてみたい。