『屋良朝苗日誌』に見る皇太子明仁の沖縄初訪問【下】

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沖縄初訪問と火炎瓶事件

1975年7月17日、ついに皇太子夫妻が沖縄へ到着した。その感慨を屋良は以下のようにつづっている。

七月十七日(木)晴

私の人生の最頂点になる山場を迎えた今日のこの日、願わくば無事に使命を果させ給えと祈りに祈る。朝七時共同通信の林氏朝来訪、話して帰る。家内を連れ十時十五分その山場に出かける。特別奉迎人の休憩室で休み、定刻に予定の御迎えの位置に並ぶ。十二時二〇分定刻に飛行機は着く。両殿下通路の窓から笑顔で出迎え者に手をふられる。親しく笑みかけて御迎えに応えて下さる。県側代表奉迎者を私から紹介、その後しばらく休憩。予定の時刻に南部戦跡に御出発。飛行場内それから沿道には日の丸小旗を打ち振って出迎者は沢山集って盛大。糸満までの沿道その通り、糸満に入ると出迎え人の山、良かったと思った。

(屋良日誌36)

しかし、その道中に事件が発生する。皇太子夫妻を乗せた車列に向かって瓶が投げられたのである。

糸満に行ったら2、3千人を数える群衆道路の両脇で日ノ丸の旗を打ち振り歓迎する。それはすばらしい成果だったが、それに水をぶっかける一不祥事件が起った。白銀堂隣りの病院三階らしい所から自動車の列に火焔びんらしいものが投げ下された。瞬間はっと云う声に気がついて上を見ると逃げまどっている犯人らしい者の動きが見えた。事故にまでにはいたらなかった。しかしこの行事に大傷がつき汚点を記した事は残念。

(屋良日誌112)

屋良は「火焔びんらしいもの」と書いているが、当時の報道では「空きびん」「鉄パイプの切れはし」と報じられている(『朝日新聞』1975年7月18日)。このような不測の事態が発生したものの、皇太子夫妻はそのままひめゆりの塔へ向かった。そこで供花をした後に、火炎瓶投下事件が発生する。

姫百合塔までも出迎者いっぱい。塔でも同窓会員も沢山出迎えて源先生〔源ゆき子ひめゆり同窓会会長〕の案内で正子さん宮城さん等も紹介され供花の後に軍医の慰霊塔近く説明をしている最中、あっと云う間に壕の中から火焔びんを投げ込まれ発火する。私は火をもえているのを見てびっくりした位で、壕の中から投げられたとは知らなかった。両殿下は警官等に押されて現場を避難、車の中に御入りになる。私は火を見てショック、殿下方と一緒に一応は車に乗ったが再び出て来て犯人の逮捕された奴を見る。人々に突き倒されひっくりかえる。

火炎瓶を投擲した2人はその場で現行犯逮捕された。しかし皇太子夫妻の戦跡巡拝の日程は変更されることなくそのまま続く。

次は健児の塔へ。私はもうそこでも気が気でない。その上にれいめいの塔へ十分位の道程を徒歩で登られるとの事で心配する。しかし両殿下案外平気で登られ、ショックを受けている僕がふらふら。牛島中将自決の壕へもは入られた。れいめい塔御参拝後、帰られる途中、鹿児島、秋田、黒ゆりの塔に礼拝さる。次は島守の塔へ参拝。次は平和記念館へ。しばらく休憩。休み中は私は記者に質問を受け答えねば良かったのに答えてしまった。後で両殿下に御会いし、申し訳なしと遺憾の意表明する。殿下はけが人がなかった様で良かった、知事さんも気にしないで下さいとさりげなく云われる。私は言葉に窮した。

(屋良日誌36)

両殿下ねんごろに参拝。全く純心そのもの謙虚そのもの、普通の参拝者より更に数段御ていねいに頭を下げられる。妃殿下の供花は更に立ったままではない。膝を曲げて供花して居られる。その物腰と云い御言葉と云い、いたいたしい位にしとやかであり、やさしい仕草であり、ていねいであり誠の大和なでしこの権化とも云いたい位である。

海軍壕に行くまでの歓迎陣も(豊見城)大変の人出。有りがたいと思った。壕の巡礼を終えられ次は遺族会館のしず玉の塔の参拝。ここは普通の人々が参拝した事がない所だ。ホールに300名位の遺族が奉迎申しあげる。コの字型に厚さ4列位に並んでの御迎え。その前列の人に両殿下とも一一話しかけ問いかけ語りかけて居られる。而も冷房もなく蒸し風呂見た様な所である。その真面目さ純真さ誠実さここでも拝察出来て頭が下る思い。いかにして少しでも県民や犠牲者に近づき、とけ込むかに心を配られているかが分る。

(屋良日誌112)

この日の夜、皇太子は「お言葉」を発表する。

そこでは「過去に多くの苦難を経験しながらも、常に平和を願望しつづけてきた沖縄が、先の大戦で我が国では唯一の住民を巻き込む戦場と化し、幾多の悲惨な犠牲を払い、今日にいたったことは忘れることのできない大きな不幸であり、犠牲者の遺族の方々のことを思うとき悲しみと痛恨の思いにひたされます」「払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人々々、深い内省の中にあって、この地に心を寄せつづけていくことをおいて考えられません」「戦後、私たちは平和国家、文化国家という言葉になれ親しんで育ちました。今、もう一度これらの言葉を思い起こし、この博覧会が有意義な何ものかを沖縄県に残すことを切に期待しております」と記された(『激動八年』254-255頁)。

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