『屋良朝苗日誌』に見る皇太子明仁の沖縄初訪問【上】

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皇太子への沖縄訪問要請

昭和天皇の来沖が困難であることを悟った屋良は、皇太子の沖縄訪問に尽力する。1975年7月11日付の日記には、その経緯を記している。

皇太子殿下の〔海洋博〕名誉総裁御就任は〔昭和〕49年の中頃から話は進められていた。大浜先生〔大浜信泉沖縄国際海洋博覧会協会会長〕がはじめに知事副知事、県会議長、那覇市長、〔沖縄〕タイムス上地社長、琉球〔新報〕池宮城社長等の意見聴取にはじまる。私共としては海洋博が国際的国家行事として開催される以上、その事は国際慣例にしたがって進めらるべきものであると考え、大浜先生の御提言に同意申しあげた。私以外の方々も同様であった。

そこで私が上京の折に大浜先生の御伴して、中曽根通産大臣に会って沖縄側として名誉総裁御就任を御願いしたいと申言した。大臣は革新政党の意見を聞いてきてもらいたいとの注文。そこで私は一応帰任し各政党の責任者に会って連絡協力要請。社大〔沖縄社会大衆党〕委員長、社会党委員長、共産党委員長、古堅副委員長、公明、社民の県会議員に要請した。何れもさした反対はなく、特に共産党の瀬長〔亀次郎〕委員長は、共産党は皇室が政治的に利用される事に反対するのだと云われ、今度の場合別に反対表明はされない意向の様であった。そこで私は上京の節、河本通産大臣〔内閣改造により交代〕に大浜先生と一緒に御目にかかり革新政党に暗黙の了解を取りつけた由を申し出で皇太子の名誉総裁就任の手続きが取られ御承諾を得た経過であった。

(屋良日誌111)

ここからは屋良は天皇の沖縄訪問について一斉に反発した革新系団体への根回しを行い、皇太子の訪沖についてはあらかじめ「暗黙の了解」を取り付けたことがわかる。こうして1975年4月10日に皇太子の海洋博名誉総裁就任が発表された。そして4月16日の午前、屋良はまず宇佐美毅宮内庁長官と面会する。

S50.4.16(水)

◎11時、宮内庁長官宇佐美長官に会い、あいさつ是非戦跡巡拝をしていただく事。その他の事については県知事に御委せする事。

天皇陛下から私はどうするのだ、アメリカに行く前に行けないのかとの御下問があって困ったとの御発言あり。

外国元首等が来訪した場合に天皇の御立場が困られる事になる事を心配して居られた。この話しを聞いて私も非常に話しにくい立場に立たされた。しかしうかつの事をは云えず今後の問題として考えていく事にする。

皇太子は三回程渡沖なさるのではないかとの事であった。

(屋良日誌111)

この時点ですでに戦跡巡拝が要望として伝えられていること、昭和天皇が1975年9月のアメリカ訪問前に沖縄への渡航を希望していたことがわかる(なお、この個所については2012年11月に報道されている)。

その日の午後、屋良は東宮御所へと向かう。

◎2〜4時 東宮御所

はじめに鈴木大夫、侍従長、八木侍従に会って御あいさつ。この度の事務は八木侍従が当るとの事であった。

鈴木大夫からいろいろ話しがあった。殿下の御渡沖に対する県民感情等も心配して居られた。

何よりも戦跡巡拝を優先させたいとの事。私も同感の由話す。その他の日程については一切知事に委すとの事であった。いろいろ検討したい。

御渡沖前に戦前の沖縄、戦争中の沖縄の事情、戦後の沖縄の社会、経済等然るべき人々を知事と大浜会長に推薦してもらって説明を受けたいとの申し出があった。

歴史については宮城栄昌氏?〔沖縄国際大学教授〕、戦争中の事については外間先生か〔外間守善、法政大学教授〕、沖縄戦後の社会経済については久場先生?〔久場政彦、琉球大学教授〕と大浜先生との間に話し合った。

今度の上京は適切の計画であった。その機会をつくってもらった吉田嗣延氏〔沖縄協会専務理事〕に感謝する。朝食会の話し合いも出席して良かった。急の事であった宮内庁宇佐美長官に会い御気持を聞き得た事も良かった。ここで陛下の気持もうかがって胸がいたむ。

東宮御所も大夫、侍従長、侍従関係者に会いいろいろ話しもうかがって良かった。最後に皇太子殿下に御目にかかって長時間話し合い出来た。三度目の会見も沖縄の為によい機会となった。

(屋良朝苗日誌111)

屋良はこのようにして皇太子の沖縄訪問を実現すべく、用意周到に日本政府要人らとの折衝を繰り返していた。しかし皇太子の海洋博開会式出席に際し、戦跡も巡拝することが報じられると革新系団体はやはり反発した。これに対し屋良は「心をこめてお迎えしよう」と県民に呼びかけ、その理解を求めた。その気持ちを屋良は「豊かな県民性の根底にたたえられた民族的本質が必ずや大きな力を発揮してくれる」(『激動八年』252頁)と書き表している。

<以下、【下】へ続く>

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