なぜ、いま栄町共同書店なのか

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労働者協同組合の舞台

さて、栄町共同書店は運営主体がオーナー個人ではなく、「労働者協同組合(労協)」という法人格なのも、大きな特徴だ(法人名は栄町労働者協同組合)。日本における労働者協同組合の法制化は比較的最近のことで、根拠法の成立は2020年、施行は2022年だが、組織形態としては相当の歴史がある。

実を言うと、シェア型書店より先に、この法人格のことが気になっていた。それが今の沖縄社会に必要な処方箋に見えたからだ。県内最初の事例である「かりまた共働組合」の設立準備の様子を見せてもらった他、協同総合研究所(池袋)の助力を得て、但馬(兵庫県)、尼崎(同)、鈴鹿(三重県)、東白川(岐阜県)、藤沢(神奈川県)での実践現場を見て回り、労協の可能性について考えてきた。

労協の特徴は、株式会社と対比すると分かりやすい。株式会社が出資者・経営者・労働者の階層的分業体制を基本とするのに対して、労協ではその3要素が一体化している。つまり、労働者自ら出資と経営を担い、かつ労働に従事する。全組合員が出資額にかかわらず一人一票の投票権を持ち、役員の選任を含めた重要事項の決定に参加する。労働者の自治を重んじる組織形態だ。日本では戦後の失業対策事業や生活者協同組合から派生するかたちで発展してきたが、近年の法制化を受けて関心層の裾野が広がっている。

労働者協同組合と株式会社は、組織文化も違えば、所属する労働者の意識も違う。株式会社は利潤追求に特化した組織だ。顧客が必要とするものを提供し、その対価の一部で人を雇う。社員を大事にする会社はあるが、先立つものは顧客のニーズだ。それを満たすのに必要なスキルを持つ人材を募るために相応の待遇を提示するが、原則として仕事をこなせるなら誰でも良い。そこでの労働者は匿名的な一個の労働力でしかなく、「お前の代わりはいくらでもいる」というプレッシャーに晒される。

乱暴に図式化してしまえば、労協では、この順番が逆になっている。「この仕事を出来るなら誰でもいい」のではなく、「このメンバーでできる仕事は何か」を考える。つまり仕事に合わせて人材を入れ替えるのではなく、人に合わせて仕事を起こす。地域のニーズは重視するが、幅広い顧客ニーズには即応できない分、高報酬は望みにくい。

営利企業は「使える人材」に高給を払うかわりに、「使えない人材」を切り捨てる。良い悪いではなく、組織原理がそうなっている。結果として企業体として高いパフォーマンスを維持するわけだが、労協にはそれができない(柄谷行人『世界史の構造』岩波書店、2015年、399頁)。利益を上げることもできるが、「株主」と違って、その果実は労働実績に応じてしか配分されない。そのため株式会社のように集中的な投資を呼び込んだり、絶えず優秀な人材に高い報酬を提示できる経済組織と競争することは至難だ。資本主義社会である限り、労協の活動範囲はそれほど広くない。

一般的に、人々が必要とするサービスは、市場(しじょう)か行政が供給すると考えられている。市場で値が付くものなら民間事業者が手を挙げるし、値が付かないものでも議会が必要と認めれば役所がなんとかする。しかし現実には、皆が必要としていながら、市場でも行政でもカバーできないものは無数にある。労協が活躍するのは、そうした市場と行政の谷間に落ちる分野だと考えている。誰の所有物でもないが、皆にとって必要なものを、自分たちの手でつくり、維持すること。そうした自治の精神を具体的な事業に落とし込むための媒介になるのが労協なのだと思う。

近年、労協が注目されるようになってきた背景は、法制化だけではない。たとえば、自身の労働力を企業に売り渡し、その対価として賃金を受け取るという労働市場での取引が「割に合わない」と考える人々が増えてきたこと。あるいは、生活の全領域をカバーするかのように思えた市場や行政の限界が露呈し、かつて伝統的な共同体がそうしていたように、自分達に必要な生活サービスを自分達で供給する必要に迫られていること。そして沖縄も、こうした状況と無関係ではない。

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