沖縄的共同性の虚像と実像
沖縄社会には日本本土では衰退した共同体的な社会関係が今なお息づいている、と見る向きがある。住民同士の紐帯が強固で、いざという時には団結して闘う島、というイメージも根強い。他方で近年は、住民間のつながりの希薄化や、若年層を中心とした大衆運動に対する諦観ないし忌避感の広がりも指摘されている。かつて盛んに大衆運動を展開し、日米両政府と対峙した沖縄も「怒りなき社会」に変貌しつつあるようだ。そうした現状を見ずに、古き良き時代を懐古しても仕方がない。が、過去の社会のあり方を知ることは、現在の社会のあり方を距離を置いて見るのに役に立つ。
沖縄に息づく共同体的社会関係の象徴として良く紹介されるのが、北部中山間地域や離島に今も見られる共同売店だ。本島北部の中山間地域や離島等の集落において、住民自ら出資して運営する事業体だ。市場も行政も手が及ばない領域で活動する事業体として100年以上前に誕生し、労働者協同組合とほぼ同じ仕組みで運営されてきた。全盛期には、販売だけではなく、製造、運搬、金融など、地域住民の生産・消費活動の中心を担っていた。
今も各地に残る共同売店の存在は、NHK朝の連続テレビ小説「ちむどんどん」でも登場するなど、伝統的共同体を具象化した存在として注目されてきた。が、近年はその存続が危ぶまれてもいる。過去20年間で約30軒もの共同売店が閉店、現在は50軒程度にまで数を減らしている。その背景にあるのは、本島中南部への人口流出による共同売店利用者の減少だ。
仕事や住む場所が自由に選べるようになれば、地理的な条件不利も皆で力を合わせて乗り越えるより、個々人が好きに都市部へ移り住む方が手軽な選択になる。沖縄と言えば「ゆいまーる」、つまり助け合いの文化が根付いた地域と見られがちだが、相互扶助はフリーライダーの登場を抑止するための相互監視を必ず伴う。「つながり」と「しがらみ」は表裏一体だ。それに対して、都会に出れば、自らの能力と努力に見合った報酬を得て、自分だけの快適な生活を手に入れることができる。
そのように相互扶助よりも自助努力と自力救済を尊ぶ心性について、筆者は「マイホーム主義」という言葉で捉え、その浸透・普及過程を探ってきた(古波藏契『ポスト島ぐるみの沖縄戦後史』有志舎、2023年)。この言葉は、私生活の充足に専心し、公共的関心を希薄化させた労働者の態度を揶揄するために用いられることが多い。が、個々のマイホーム主義者を叱責しても始まらない。問題は、そうした態度を培う土壌だ。マイホーム主義的な態度は、必ずしも自然発生するものではなく、ある時代の、特定の社会構造と紐づいている。
マイホーム主義の成立条件はいくつもあるが、たとえば第一に、出自にかかわりなく、誰もが自身の努力と才覚に見合った社会的地位を獲得できる仕組みが必要だ。平たく言えば「勤勉に努力すれば報われる」という信念を維持すること。それには万人に開かれた教育機構や、そこでの達成水準に見合った職業選択を可能にする公正な労働市場が必要になる。そこで人々は、抜け駆けを嗜めるムラ社会的なつながり=しがらみから解放されるかわりに、匿名的な労働力へと転身する。
だが、個々の能力に応じて評価される競争的環境に個人が一人で耐えることは難しい。そこで第二の条件として求められるのは、一度手放した共同性を、別の方法で埋め合わせることだ。他の誰でもない「素の自分」でいられる場所が、匿名的で競争的な社会からの「避難所」になる。サラリーマンにとってマイホームの獲得が目標になるのも、それが失われた共同体(home)を擬似的に再生する新たな家郷(home)として機能するからだ。これは戦後日本の社会学の大家・見田宗介も論じている(見田宗介「新しい望郷の歌」『まなざしの地獄――尽きなく生きることの社会学』河出料房新社、2008年)。
マイホーム主義は、世界中の人々を資本主義社会に適合させるために編み出された米国の冷戦戦略の産物でもある。その理論的支柱となった近代化論は、人々を前近代的な共同体社会から連れ出し、賃労働の世界へと招き入れるための手法の開発に主眼を置いた。社会主義革命を経ずとも、労働者が報われるような労使関係の確立、何等かの事情で働くことができない者へのセーフティネットの整備、地域間格差の是正、道路や公園、普通教育、その他の公共財の供給・管理、それらの財源を確保するための徴税機構、そして政府の正常な動作を監視するための議会制民主主義の仕組み、等々。
戦後米軍統治下にあった沖縄も、当然ながら、そうした戦略とは無縁ではあり得なかった(ボーダーインク編・古波藏契監修『「守礼の光」が見た琉球写真が語る― 米軍統治下のプロパガンダ誌は沖縄をどう描こうとしたか』ボーダーインク、2024年)。米軍当局は、沖縄統治の一環として米国的生活様式(American Way of Life)の普及に注力したことは、良く知られている。その主眼は、地元住民の生活スタイルをアメリカ風にすること自体ではなく、そこに具象化されたマイホーム主義的心性の浸透・普及にあった。
1972年の日本復帰により、米国の沖縄統治は終わったが、マイホーム主義的心性を浸透・普及させるというプロジェクトが放棄されたわけではない。近年の沖縄が「怒りなき社会」になりつつあることは、それが復帰後も継続してきたことの表徴にも思える。