なぜ、いま栄町共同書店なのか

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栄町市場からの挑戦

マイホーム主義は、資本主義社会に適合する社会意識として、遍(あまね)く社会に広がった。だが、その持続可能性は疑わしい。誰もが「勤勉に努力すれば報われる」と前向きに信じられたのは、経済のパイが増え続けた高度成長という特殊な時代だけの話だ。「明日は今日より良くなるはず」と期待できるうちは、現存する格差にも目をつむり、現状にも我慢できるかもしれない。他でもない近代化論者自身、労働者の現状肯定的な態度の根拠を、そうした期待に求めてきた(W.W.ロストウ(木村健康、久保まち子、村上泰亮 訳)『経済成長の諸段階 一つの非共産主義宣言』ダイヤモンド社、214頁)。しかし、経済成長の鈍化とともに、「勤勉に努力すれば報われる」という同じ文句が、立ち止まることを許さない恫喝の響きを帯びるようになってきた。四方を競争相手に囲まれているように感じられる社会では、助け合いの精神や公共的な問題への関心も、優等生的なお題目としてしか響かない。

栄町共同書店は、マイホーム主義に押し出されて薄れていった共同性を、現代の条件の下で再構築する試みと言って良い。たとえば、シェア型書店での箱店主経験は、否応なく自分以外の誰かの立場を想像させる。独りよがりの選書では全然売れないからだ。この文章を書いている時点で開店4日目だが、自分の並べた本が売れた時の箱店主の喜ぶ顔は印象的だ。月額4000円という利用料金は、蔵書を処分する費用としては決して安くない。ほとんどの箱店主が売り上げで儲けようとは思っていないだろう。自分が大事だと思う本を見知らぬ誰かと共有できること自体に価値を見出しているのだと思う。

それ以上に重要なのは、「コミュニティ」や「つながり」、「共同性」という説明が難しい言葉の体感的理解を培うことができることだ。一つ一つの棚は箱店主の占有空間ではあるものの、同時に栄町共同書店という共有空間の一部でもある。思い思いの本がバラバラに並ぶだけでは、必ずしも客にとって魅力的な書店になりにくい。栄町共同書店が一つの書店として成立するには、既存の新刊書店・古本屋とは別の方法で統一性を確立する必要がある。いわば個性と統一性を両立させなければならないわけで、これは相当難しい。だが、そうした困難にこそ、シェア型書店の学びがあると思っている。

店を構える栄町市場という場所は、沖縄の中でも異色な地域で、いまだに昔ながらの共同性が息づいていると言われる。それは今ある市場のかたちが、住民同士の相互扶助とある程度の干渉を前提としているからだ。小さな店舗が密集する市場には、水道やトイレなど、共同で利用・管理する空間が多い。無秩序に見える路上の使い方にも一定の決まりがある。個性的な店が多いが、各々が市場の一部であることを強く認識している。カレーはカレー屋、コーヒーはカフェ、各々特化・分業することで、市場全体としての魅力を最大化している。そうした絶妙なバランスで維持された共同性は、栄町共同書店プロジェクトの見本にもなっている。

栄町共同書店は、一つの書店で完結するものではなく、「自分たちに必要なものは、自分たちでつくる」という自治の精神を取り戻すためのプロジェクトであり、次の取り組みにつながる呼び水になってこそ意味を持つ。たった3坪の小さな書店が社会を変えるとは思わないが、栄町共同書店と栄町市場に触れた人が、自身の持ち場で、また新しい挑戦を始めることもあるかもしれない。(本稿は篠田恵との共同執筆)

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