八重山研究に目覚めた青年教師
卓爾と共に研究を進めたのが喜舎場永珣だ。大浜信泉と同じく登野城部落の生まれで、永珣が六つ年上になる。沖縄師範学校を出て故郷で教職に就いた。1906年、文部省が全国の民謡や俗謡の調査した際、校長に呼ばれてその担当を命じられ、まったくの門外漢ゆえ驚き戸惑った。貧乏籤に当たったと嘆きながら、2週間ばかり古老らを訪ねては汗水をたらして調査書を仕上げた。琴線に触れるものがあったらしく、「その時私は民謡に関する趣味をおぼろげながらも解するようになった。ここに初めて民謡誌の種子を下した」。これを機に八重山研究に入っていく。
翌年3月、伊波普猷が初めて八重山の土を踏む。東京帝大で言語学を修めて沖縄初の文学士となり、前年帰郷したばかり。道案内役として、校長から永珣が指名を受けた。普猷32歳、永珣23歳。道すがらいろいろ質問を受けたが、言葉に窮し、普猷を嘆かせた。講演に立った普猷は「教育家にとって教育とは郷土の研究がその一歩である。郷土化しない教育は、砂上の楼閣も同様だ」と強い口調で諭した。ひと月近い滞在中、永珣は毎日宿を訪れて、研究方法について教えを乞うた。那覇へ戻った普猷はすぐに『琉球国由来記(写本)』などを送り、尻を叩いた。古文書を探し求め、古謡を文字や記号に落とし込んでいく永珣。普猷から『鷲ぬ鳥節』(お祝いの席で歌われる定番の曲)の元歌が作られた年代や作者について調べるよう依頼され、大浜信泉の父・信烈ら古老の家を訪ねては報告書をまとめた。「私の郷土史研究への種子は、正しくその時、伊波先生によって蒔き下ろされた」と述懐する。
青年教師の永珣は、英才教育をモットーとし、いかに学習意欲を高めるか工夫を凝らした。授業前の四、五分間は必ず郷土の神話や民話、芸能、偉人伝について話した。個性を伸ばし、隠れた才能を引き出すのに懸命だったという声は多い。来訪した研究者らは、卓爾や永珣に案内されて子どもたちに講話した。当代一流の知識人である。その教室から大浜信泉、沖縄初の文学博士・宮良当壮(言語学者)、第一回伊波普猷賞受賞の宮城文(社会運動家)、中央文壇で売れっ子になった伊波南哲(詩人)らが巣立った。彼らを含めた前後の世代からは、旧帝大をはじめとした高等教育機関に進んだ者が珍しくなく、医師や弁護士、博士号取得の学者、全国紙編集委員などを輩出している。僻地とされた小島、当時の人口数を考えれば、卓爾や永珣らの存在が影響したこと以外にその要因は見当たらない。
のちに「沖縄学の父」と称される伊波普猷との初の出会いを、信泉はよく覚えている。普猷が鳥井龍蔵とともに姿を現した。「はじめて学者の学術的の講演を聞いたことそれ自体が子供心に大きな感激であったが、その該博な知識に驚嘆し学問に対する憧れを感ずる反面、学問的研究の対象は心掛け次第でそこらじゅうにころがっているものだということを言外に教わったような気がした。もしこの貴い刺戟と示唆を生かして郷土の事物に対し研究的の関心を寄せかつそれを持続していたなら、あのときの感銘ふかい講演が知的開眼の契機となって、いまごろは何かまとまったものをもつことが出来ていたにちがいないが、凡人の悲しさ切角の感激をそこまで成長させることは出来なかった」(「沖縄学の大恩人・伊波普猷先生」)。後年の回想であり、もちろん、自らを凡人と称したのは謙遜である。伊波普猷の名声は子供の頃から耳にし、終生、郷里の大先輩として羨望の的であった。伊波普猷が喜舎場永珣を郷土研究に導き、その普猷と永珣がさらに信泉を手ほどきしたのだ。永珣と親交のあった西村朝日太郎早稲田大学教授(稲嶺一郎の義兄)は『喜舎場永珣生誕百年記念論文集 八重山文化論叢』の中で、教え子である信泉が国際的に華々しく活躍していることも踏まえ、喜舎場の一生は決して派手ではなかったが、その学問的意義と価値はますます価値を増している、と称えた。