石垣島測候所長の岩崎卓爾は気象に関する動物や植物を調べる中で、八重山固有と思われるものを採取しては日本本土の専門家に送って鑑定を頼んだ。日本に分布する蝉の中では最小の種・イワサキクサゼミなど、「イワサキ」という名を冠した昆虫や爬虫類が次々と図鑑に掲載された。新種と鑑定されたものは23種に近い。
諺や伝承・歌謡には、その地域に棲息する動物や植物が出てくるので、しぜんと祭祀や遺跡にも知識が広がる。その知見を基に手掛けた『石垣島案内記』は現代でいう旅行ガイドブックのスタイル。『ひるぎの一葉』『八重山研究』『やえまカブヤー』『石垣島気候篇』『八重山童謡集』のほか、多岐の分野にわたる著作は注目を集めた。
琉球併合後、南端の八重山は早くから幾人もの研究者を引き付けたが、その窓口となったのが卓爾だ。1904年に人類学者の鳥居龍蔵が訪れて川平貝塚を発見。植物学者田代安定、マラリア調査の宮島幹之助、民俗学の柳田国男・伊波普猷・折口信夫、美術教師の鎌倉芳太郎(人間国宝)らが次々と足を運んだ。真境名安興、柳宗悦、 東恩納寛惇、大島広もいる。卓爾はその知識だけでなく、貴重な標本や資料を惜しみなくあげ、手元にない場合はどこかから探してきて渡した。「これは君一人個人のためにやるんじゃない。国家のために君にあげるんだ」が口癖だったという。しまいには須藤利一は「私も国家のために頂きます」と言って、遠慮なくもらったという(『南島覚書』)。彼らは最新の知識・情報を島にもたらし、また島の実情を外界に伝えた。それにともなって中央では南方への関心がさらに高まった。八重山は国土として編入されただけでなく、日本の「知の体系」の中にも組み込まれたのだ。
卓爾は、八重山で初の盲学校や幼稚園、私立図書館を開くなど教育にも情熱を傾けた。新築された測候所を子どもたちに見学させて観測記録を書かせ、それを東京の中央気象台長に送付したところ、さらに転送されて文部省普通学務局長の目に触れた。局長談話が沖縄毎日新聞に残る。「全部を通じて其綴り方誤謬少く趣味豊富にして内地にも余り其類を見る能はざる程の好成績也」(1909年10月1日付)。全国でも例をみない国語力だと褒められたことは、児童らの自信につながったに違いない。
児童向け新聞『児童の産業』(1924年11月22日創刊)は、世界のNIE事業においても先駆的な試みだ(注1)。月1回発行、B4サイズの8ページ前後。世界情勢や最新科学、日本本土の風物など話題は多彩で、毎月の気象状況や八重山諸産業統計など大人向け記事もある。児童らが投稿した詩や作文の横に、「アインシュタイン暗殺 女犯人直に捕はる」「ロビンソークルーソーの鉄砲」といった海外ニュース。「東宮妃殿下御妊娠」「高松宮御成年式」の下に、東京だより「大濱信泉氏欧米へ留学す」(25年1月22日付)。信泉の父・信烈が測候所新築を祝う歌を作曲した記事は、卓爾との親密さがうかがえる(連載②参照)。たんなる地域誌や学級新聞の枠をはるかに超えた構成で、八重山と世界・日本の話題が同じ紙面上に並んでいた。世界の動きと自らの島の状況を相対的に目視できるのだ。投稿の場を提供する教育効果は想像以上に大きいだろう。