ロバート・バウン号と尖閣諸島
苦力貿易船での反乱事件は多発しており、英国支配下のシンガポールに逃れた例もある。しかしロバート・バウン号が漂着したのは英米の植民地ではなかった。日本・英国・米国・中国も絡んだ国際問題になったのは、石垣島現地の許可なく始まった武力行使であったからだ。
近年、尖閣諸島の帰属を巡って日本・中国・台湾が睨み合い、緊張感が高まっている。異変が報じられるたびに、それぞれのナショナリズムが煽られる。先島では日米の軍事拠点化が一挙に進み、不審者上陸を想定した議論も沸き起こるが、170年余前、すでにロバート・バウン号事件のような上陸戦が実際に起きていたのだ。日本本土・沖縄島の住民にとって、尖閣を巡る軍事シナリオはどこか遠隔地での仮想ゲームのようにも語られているが、現地八重山の人々にとっては過去から続くリアルな事態として迫ってくるのだろう。
興味深い件がある。尖閣を巡って、決定的史料として挙げられるのが、中国側が石垣島の人々に贈った感謝状だ。実はこの感謝状が脚光を浴びたのは、大浜信泉のお膳立てによる。
1919年年12月末、嵐に遭った中国漁船が尖閣諸島に漂着、福建省漁民が救助され、石垣島に移送された。石垣村役場が保護にあたり、長崎駐在中華民国領事と交渉の末、翌年1月21日に送還船を送り出した。のちに長崎駐在中華民国領事は石垣村長・豊川善佐らに感謝状を送った。感謝状に、遭難場所が「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と記されていることから、日本政府系機関が「日本領有を中国側が認めていた証拠」として、ホームページなどで画像を公開、世界に向けて日本帰属の正当性を主張している。
表彰状を贈られた村長・豊川善佐は、大浜信泉の次姉の義父にあたる。善佐の長男・善包と大浜の次姉が夫婦。大浜家と豊川家は、共に登野城部落に家を構える近しい親戚同士だ。信泉がラブレター事件で師範学校を退学になった際、義兄の善包は早稲田大学に、その弟の善曄(ぜんよう)は東京高等師範学校に在学中で、信泉は彼らの下宿先に転がり込むかたちで上京、再起を期すこととなった。年長の豊川兄弟が大浜の面倒を見た。食う物にこと欠きながらともに自炊、苦楽を共にした。善包の背中を追うように、信泉も早大の門をくぐる。いずれも岩崎卓爾(石垣島測候所所長)と喜舎場永珣(教育者・郷土史家)から影響を受けた世代にあたる。
