太平洋と中国大陸との間に弧を描くように60余の島々が連なる琉球諸島。東南アジアと東アジア(日本)を結ぶ国際海上交通の要衝であり、古くから南蛮船や異国船の重要な航路帯であった。現在のような確固たる国境がない時代、ゆるやかな境界を通じて海上と陸上側の人々が相互作用を繰り広げた。八重山諸島は歌や踊りにことば、陶器や衣類などにも南方の影響が色濃い。「最果ての地」「陸の孤島」と称されるのは、日本国の版図に組み込まれたためで、それ以前は「海のクロスロード」だった。
東アジア海域でははやくから漂流・漂着した船の乗員らを保護し、送り返す国際的な手順が早くから整っており、1477年には八重山諸島与那国島で朝鮮済州島からの漂流民が救助され、首里王府によって島伝いに送り届けられている。帰国するまでの2年近い間に見聞きしたことが『朝鮮王朝実録』に残る。
八重山には異国船や漂流船だけでなく、素性の知れない船も出没した。『八重山への漂着及び来航事例集』(八重山博物館紀要第20号)によると、確認された異国船(大和船を含む)の漂着・来航は1630~1879年の間に約100隻にのぼる。石垣島に漂着した10人が島人5、6人を刺傷したために討ち取り、その首を塩漬けにして首里に送った事件。南蛮船から200~300人が上陸して島人を殺害し幼女を連れ去る事件もあった。西表島には数年に一回漂着するオランダ船と交易していたという記録もある。波照間島には漂着したオランダ人が住み着いて島人の暮らしに貢献、地元女性との間に子を設けた伝説が伝わる。
大浜信泉の実家にも、漂着したマンデラ人が出入りしていた(連載③参照)。そんな土地柄もあってか、幼いころから知的好奇心が旺盛で広く外界に目を向けていた。琉球の外交史、八重山の海域史は、大浜の歴史観に少なからぬ影響を与えただろう。沖縄の日本復帰(再併合)が取りざたされた頃、19世紀に琉球に寄港した英国船の見聞記を翻訳・出版している。西洋列強の立ち振る舞いや狙いをどう認識していたのか。
キリスト教国スペインが企てた琉球侵攻
コロンブスの米大陸到達を契機に、欧州列国による「大航海時代」が始まった。地球的規模で探検が進み、航路が次々と拡がっていく。彼らは武力とキリスト教によって植民化を図った。1500年代に台湾北部を占領したスペインは、日本への布教を目論み、カトリックの一大拠点であるマニラ(フィリピン)から日本へ至る中継地として琉球に目を付けた。キリスト教の侵入を恐れていた江戸幕府は、1613年に全国へ禁教令を発令。直前の島津侵攻で幕藩体制に組み込まれていた琉球は、キリスト教と異国船を防ぐための最前線となった。
八重山は慌ただしい。東南アジアから北上する船は、まず八重山諸島と出会う。1630年、日本へ向かうため潜入した宣教師を援助したとの嫌疑がかけられた八重山キリシタン事件(島の有力者らを処刑)が起こり、これが海防強化の転機となった。王府は各島の高台に火番盛(監視所)を設け、異国船を発見した際に烽火を上げて、情報を伝達していくルートを構築した。石火矢(大砲)の設置を命じて、玉薬(火薬)の調合も指示した。薩摩藩の役人が駐留する「大和番所」が置かれた。
琉球諸島では、宣教師が漂着を装って潜入した事例が続く。真栄平房昭『琉球海域史論(上・下)』によると、江戸幕府がマニラから琉球に上陸した宣教師を捕らえて取り調べたところ、スペインが琉球を占領して日本布教への橋頭堡とする企てがあることが判明した。実際にスペイン人60人を乗せた武装船が出航したものの、途中嵐に遭い難破したという。危機感を抱いた幕府はルソン島に偵察船を派遣し、マニラを軍事的に占領する計画を立てた。スペインと競合関係にあったオランダに軍事援助を求めて準備を進めたが、結局、島原・天草一揆の発生という国内事情からマニラ出兵は立ち消えとなった。
東アジアの国々は海賊にも手を焼いていた。琉球王府も朝貢船への襲撃が相次ぎ、殺害された者も多数出たことから、明に要請して軍船が給賜された。1522年、那覇港に倭寇侵入を防ぐ屋良座森グスクと三重グスクを築き、首里城の城郭も二重に張り巡らせた。王府の高官・羽地按司は鉄砲などの武器類を提供するよう薩摩に求め、三司官蔡温も日常的に武芸訓練をする必要性を痛感し、自衛的な武装強化を推し進めた。八重山では異国人が上陸した際には、近くに武器を隠して置き、戦に備えるよう指示を出した。武器類は薩摩藩の厳重な管理下で保管された。