初代最高裁裁判官になれなかった大浜信泉④異国船出没 翻弄される八重山(上)

この記事の執筆者

ユートピア幻想とソテツ地獄

バジル・ホールは航海記をこう締めくくっている。「琉球は貿易船の航路とは外れた位置にあり、その物産には何の価値もない。住民は外国製品に関心を示さないし、仮に彼らが欲しいと望んだとしても、支払いに必要な貨幣がないのである。したがって近い将来にこの島を再び訪れる者があろうとは思えない」

ホールの予言は半分は当たり、半分は外れた。欧米諸国は琉球に興味を寄せて相次いで艦隊を派遣、米国、フランス、オランダとそれぞれ条約が結ばれた。その点は見誤っている。ただ、いずれも交易や資源開発にはほとんど関心はなく、周辺ににらみを利かす「要石」として価値を見出していた。経済的利益がないとの指摘は正しかった。先述したようにアルセスト号艦隊にとって琉球は補給地となり、休息地だった。海水に浸かった火薬を陸揚げして乾かしたが、まさにその火薬を積んで向かった中国で砲撃戦に用いたのだ。それは現在に続く軍事拠点としてのOKINAWAを予見させる。

現在の歴史研究史で、アルセスト号艦隊はどう位置づけられているのか。まず一つは、中華思想に基づく朝貢・冊封体制が突き崩され、英国が自由貿易を強引に押し付ける転換期にあたっていたこと。すでにアヘン流入が急増しており、清はアヘン貿易の禁止に踏み切る。来航から20数年後、英国が自由貿易を建前にアヘン戦争を仕掛けた。二つ目は砲台壊滅は英国が清に対して行った初めての武力行使であり、清が植民地状態に陥る契機になったことだ。清帝国のメンツを傷つけて冊封体制下の属国の離反を招き、欧米諸国がさらに清を侮るようになった。

琉球にとっても、王府や社会状況に影響を与えた。一つは、通訳や交渉を担当する役職(異国通事)を設けるなど外交体制を整備する契機になったこと。二つ目に、乗員のクリフォード海軍少佐が帰国後に英海軍琉球伝道会を創設、宣教師ベッテルハイムを琉球に派遣したこと。強引に布教活動に行ったベッテルハイムは様々な面で大きな影響を及ぼしている。三つ目は、琉球が欧米列強に狙われるきっかけとなったことだろう。南北アメリカ大陸で先住民族を殲滅、太平洋の島々を我先に〝領土〟としてきた列強とって、先占が重要だった。武器を持たず、戦も知らない人々が住む国の存在が知られれば、たちまち飛んでくるのはある意味当然だった。ユートピア的なイメージが、列強の関心を引き寄せる一因となった可能性がある。

興味深いことに、後世の琉球人らも、異国船が自分たちをどう見ていたか気になった。伊波月城(伊波普猷の弟)は1912年に「沖縄毎日新聞」で『ベージルホール琉球探検記』を連載。40年には須藤利一が『大琉球島探検航海記』を手掛けた。伊波普猷が『改造』にナポレオン会見記の翻訳を載せたほか、眞境名安興や神山政良、仲原善忠も筆にしている。月城連載は、琉球併合から30年が過ぎたころで、王府の威光がおぼろげながらも残っていた時期だ。差別と偏見にさらされ、砂糖恐慌によって沖縄社会は〝ソテツ地獄〟に苦しんでいた。ユートピアとして描かれた琉球―。その物語は「大正期の沖縄で失意と貧困にあえぐ県民に勇気を与えた意義は大きいと思われる」(豊平朝美「幕末の異国船来琉記と当時の琉球の状況①(琉球大学附属図書館報34号)」。食べる物がなく、毒を持つソテツを口にして飢えを凌いだという貧しい庶民は、この物語を自ら欲したのだろうか。欧米に膝を屈した中国の人々が惨めな現実から逃れようとアヘンに溺れたごとく、沖縄人も「ユートピア幻想」に酔いしれたのかもしれない。

大浜信泉翻訳の『アルセステ号航海記』

アルセスト号航海記を日本語訳したのは大浜信泉だ。英語版を基に『アルセステ号航海記』(時事通信社)のタイトルで1965年に刊行した。『ライラ号航海記』の訳者は数人いるが、アルセスト号に関しては大浜しか見当たらず、唯一の基本文献として数多く引用されている。原書ではナポレオン発話はフランス語で記述されており、フランス留学経験のある大浜は仏語辞典を引きつつ、また航海術専門書を参照するなど細部にも気を配った。

発刊は早稲田大学総長3期目にあたる。商法を専門とする大浜が歴史書を手掛けたのは他に例がない。過熱する学園紛争に忙殺されながら、なぜ数年がかりの翻訳を手掛けたのか。幼いころナポレオンの英雄伝を読んで胸を高鳴らせた思い出(連載②参照)も動機の一つだろう。自分と同じく孤島に生まれたナポレオンが、琉球についてどう語ったか興味津々でページを繰ったはずだ。

ライラ号航海記が朝鮮・琉球を中心に記述されていることに対し、アルセスト号航海記は航海ルート全般に目配りし、琉球部分は全300㌻の4分の一程度しかなく、それだけに各地での出来事と比べながら読み込むことができる。大浜も「(アルセスト号乗員の)著者は、ポルトガル、スペイン、オランダの植民をまのあたりに見て、その統治政策を英国のそれと比較し、英国人としてのほこりと満足を表明しているが、その指摘している事例をみて、英国があのように海外発展を遂げたのもなるほどとうなずけるものがある」(あとがき)と指摘している。

大浜の翻訳は、序文を寄せているシャノン・マッキューン(沖縄米民政府の初代文官民生官)が後押しした。戦前に宣教師だった両親の赴任先朝鮮で生まれ育ち、地理や国際問題に明るい朝鮮研究の専門家。アルセスト号は朝鮮史でも知られていた。もともと教育畑の人間で、東京大へ交換教授として派遣された縁でライシャワー駐日米大使とも懇意だった。ケネディー大統領が沖縄新政策(民生・福祉の促進、経済援助拡大)を打ち出したことに伴い、ユネスコ本部の教育部長から転身。キャラウエー高等弁務官に次ぐ高官だったマッキューンは、沖縄の教育援助に関わっていた大浜と何かと縁があった。マッキューンは序文の中で、琉球諸島の戦略的重要性が世人の注目を浴びていることを理解するには、その背景を注意深く研究することが重要であるとして指摘し、続けてこう書いている。「この過ぎ去った時代の生活の記録(注=アルセスト号航海記のこと)を読む人々が、琉球の人々の背景についていっそう深い理解を持つようになり、そうすることによって、現在、これらの人々が当面する問題と機会について、いっそうよく認識することを望んでやまない」。「キーストーン・オブ・ザ・パシフィック(太平洋の要石)」として占領が続く沖縄を念頭に置いた記述である。

刊行した1965年は、佐藤栄作が首相として戦後初の沖縄訪問を遂げ、「沖縄の復帰なくして日本の戦後は終わらない」という名演説を残した節目の年である。大浜は顧問として同行。すでに南方同胞援護会会長など要職に就き、「復帰」に向け下準備を進めていた。復帰プロセスを頭に描きながら、同時に翻訳を続けていた大浜。幾つもの異国船航海記を読み比べながら、西洋列強に翻弄されてきた歴史を振り返り、さらに複雑な国際情勢の中で続く軍事占領をどう抜け出すか、思いを巡らせだろうことは想像に難くない。

アルセスト号の清国砲撃は、「アジア動乱」の幕開けを告げる号砲となった。その轟音は国際的な軍事侵略となったロバート・バウン号事件、宣教師ベッテルハイム滞在、ペリー来航、尖閣問題にも及ぶ。いずれも八重山と関わりがあり、大浜信泉と縁がある。

この記事の執筆者